時評     アメリカの大統領選挙を巡って

                                        作曲:中島 洋一


ジャーナリズムの敗北

 米国の大統領選挙が終わってから1ヶ月以上経過したが、大統領選挙の結果が世界に与えた衝撃は、国民投票による英国のユーロ離脱が与えた衝撃の比ではでなかった。あれだけ大統領候補としてはあるまじき過激な発言を連発しては、女性やマイノリティの反発を買い、たとえ接戦に持ち込めたとしても当選は難しかろうというのが多くのジャーナリズムの予測だった。選挙直前に米国のジャーナリズムが支持する候補者名を明らかにしたが、結果は57対2で、殆どがヒラリー支持だった。実はトランプ候補の勝利は、私にとっても想定外の出来事であった。私は今回の結果は、単にヒラリー・クリントン氏の敗北ということだけではなく、ジャーナリズムの敗北であったと考えている。社会の現実を正確に解析し、それを踏まえて未来への道標を示すのがジヤーナリズムの重要な役割とすれば、殆どのジャーナリズムは「失格」の烙印を押されても甘んじて受けなければならないであろう。ところで季刊『音楽の世界』も小さいながらジャーナリズムの一翼を担っていると考えている。
 さて、予想外な勝利を得たトランプ氏だが、国民全体の総得票数の合計数ではヒラリー・クリントン氏に200万票負けている。だが獲得選挙人数ではトランプ氏が70人余り多い306人を獲得している。 なぜ米国は国民による直接投票ではなく、選挙人を選ぶという間接的な方法を採用しているのであろうか。その理由は、昔は文字の読み書き出来ない選挙民がいたからだというこらしいが、不思議なことに現在でも方法を変えないで守っている。また、米国は合衆国であり各州の自治権が強いので州毎に違いはあるが、殆どの州で得票数の多い候補者がその州の選挙人のすべてを獲得するというシステムを採用しており、それで票の獲得数と、選挙人獲得数が食い違う結果となった。やはり接戦であったことは間違いないが、今まで民主党が優勢だったラストベルト(錆びた地帯)をことごとくトランプ氏が獲得したのが大きな勝因となった。

寛容と不寛容、夢を持てなくなった人々の怨念から発する叫び

 米国は移民の国であり人種の坩堝と云われている。大分昔のことだが、私も僅か8ヶ月であるが研究目的でアメリカに滞在した経験がある。アメリカの2つの大学(UCSD=カリフォルニア大サンディゴ校、スタンフォード大)の研究所で短い研究生活を送ったが、大学の研究機関では私のような外国人の研究者も平等に扱ってくれたし、時折、若い研究者たちと一緒にレストランで飲み食いし、屈託なく語り合った。そのように自由で寛容なアメリカは決して幻ではなく、今でも間違いなく存在するのだ。ただ、私が研究していた所はITと関わり合いの深い部門だったので、博士課程を経てしばらく大学に残り、システムの管理や、研究者のアシストをし、その期間は薄給でも、やがて蓄積した技術や知識を生かし、就職したり、自ら起業すれば、かなりの豊かな生活が可能な人たちであったと思える。つまりエリートと云われるような人たちである。
 現在はアメリカン・ドリームが失われた時代と云われるが、グーグル(Google)や、フェイスブック(Facebook)の創業者のように、若いITエリートたち、或いはメージャーリーグや、プロバスケットなどで活躍するスター選手たちは、新しいアメリカン・ドリームの具現者かもしれない。
しかし、貧しい家に生まれ高等教育も受けられなかった人物が、普通の人の数倍も働き努力を重ね、のし上がり大実業家になるというような伝統的なアメリカン・ドリームは、今や夢物語となったようだ。
 我が国では1990年代のバブル崩壊後経済成長が止まったが、米国はずっとゆるやかに成長を続けている。しかし、この20年くらいの間は、成長の恩恵にあずかっているのは富裕層だけで、多くの庶民はその恩恵にはあずかってはおらず、格差は拡大して来ている。
 特にラストベルトの白人労働者たちは、失業率も高く、生活状況が悪化しているようで、「オバマは〈我々は変えることが出来る〉と改革を訴えたが、我々がおかれた状況は殆ど変わっていない。いままで政界の中枢部にいたヒラリーなどはなおさら期待できない」という失望と憤慨の感情が強くあり、それが「メキシコの国境に壁を築き不法移民を締め出す」などと過激な発言をしたトランプ氏に一途の望みを託す結果になったのではなかろうか。黒人のオバマに対する白人の投票率は40%あったのに、白人のヒラリーに入った票は37%だったという。「女性に対してあんなに侮辱的な発言をする下品なトランプが大統領になったら、それこそアメリカの恥よねえ。」「そうよねえ。」と表面的には相槌をうちながらも、実際にはトランプ氏に票を入れた隠れトランプ支持者が予想以上に多かったのではなかろうか。米国は欧州諸国に比べ失業率は低く、その日の食べ物にもこと欠くほどの極貧の者はそれほど多くなかろう。しかし、生活は改善せず、将来に対して夢も希望も持てなくなった多くの庶民(特に白人)の怒りの叫びが、トランプ氏勝利への原動力になったものと思われる。

マイノリティについて

 私がスタンフォード大で研究していた頃、構内で行われる音楽学部のコンサートを時々聴きに行った。総合大学でありながらオーケストラなどは日本の並の音大より演奏レベルが高いほどだったが、オケのメンバーを見渡すと、米国に占める人口比に対して、アジア系の学生がとても多いのが目についた。黒人系、ヒスパニック系は殆どいなかったと思う。その日のプログラムの中で、ラフマニノフの協奏曲第2番が演奏されたが、ピアノソロを担当したのは日系の学生だった。一方、ジャズバンドなどには黒人の学生も混じっていたと記憶している。また、UCSDの研究所にいた期間には、昼食時に時々研究所から近い医学部の食堂を利用したが、アジア系の学生があまりに多いのに驚いた。アジア系の移民は教育熱心で、子息に高等教育を受けさせようとするが、理系の学部は語学のハンディが比較的少ないので、特にアジア系の学生が目立つようだ。スタンフォードの研究所の事務長が、「どちらかというとアジア系の学生の方が、白人の学生より優秀な者が多い」と語っていたが、日系、中国系、韓国系アメリカンは、白人のアメリカンより生活水準が高いというデータが出ていた。
 ところでサンディエゴに住んでいた頃、メキシコから来た電気店の定員に随分親切にしてもらったことがあるが、そういう経験は他に幾度もあった。私の下手な英語を聞けば非白人の外国人ということはすぐ判るので、かえって親近感を抱くのだろう。
サンディゴからすぐ南の国境の町メキシコのティフアナを訪れたことがあったが、米国から国境を越えるときは、フリーパスだが、メキシコから国境を越えて米国に入る場合、私のように大学が発行した研究ビザを持っていれば問題なく通過できるが、メキシカンなど中南米の人が通過する際には厳しい入国審査が待ち構えている。それで、当時も不法入国をする人々が跡をたたなかった。自動車道路を駆け抜け違法に国境を越えようとして交通事故で死亡するなどの記事が新聞に載っていた。そんなに危ない思いをしてまで国境を越えようとする理由は、米国とメキシコなど中南米の国々との間に大きな経済格差があるからである。米国で大稼ぎしたいという欲望を抱き、多くの人々が米国に渡る。現在ではヒスパニック系(メキシコなど中南米系の人々)の人口は黒人を超え、出生率では白人を上回っており、白人の中はマジョリティである筈の自分たちが、そういう人たちに仕事を奪われ、次第に押しのけられて行くのではないかという不安を抱く人々が少なくないようだ。また、9.11テロ以降、主に中近東から来たイスラム教系の人々も冷たい疑いの目を向けられ、居づらくなって来ているようだ。
 白人層を中心にした人たちのこのような不安と不満を煽り台頭したのがトランプ候補であることは云うまでもない。 しかし、マイノリティといっても色々あり、立場も境遇も異なる。第二次世界大戦中には強制収容所に送られなどの迫害を受けた日系アメリカ人だが、今では白人から白い目を向けられる存在ではなくなった。

トランプ氏の虚と実
 
 マイノリティという表現が相応しくないほど人口増加が著しいマイノリティと女性がまとまって反トランプ派に回れば、トランプ氏の勝利はあり得なかったであろう。しかし、白人女性には、かなりの数の隠れトランプ支持派がいたように、すべてのマイノリティがトランプ氏に対して反感や恐怖感を抱いている訳ではなさそうだ。また、トランプ氏も大統領選に当選後、女性や黒人を重要ポストに起用している。
トランプ氏のことはよく判らないが、4000億円を超える資産を有する大富豪で、子供の頃から豪邸に住んでおり、貧困から身を起こした人物ではない。しかし、イスラム教徒への嫌悪感、違法移民に対する反感、愛国心、エリートに対する反抗心は、その正当性は別として、多分本音と思う。
しかし、本来庶民ではない彼が、無視され見捨てられた庶民の意識を掘り起こし自分の味方にするには、敢えて悪役を演じて見せる必要があったのではなかろうか。スキャンダルを巻き起こした過激で不謹慎な発言には本音と演技が混在しており、エリート層や良識派に袋だたきにされながらもそれを貫いて見せることで、見捨てられた庶民から「彼奴は叩かれても、叩かれても本音を言い続けている。彼奴なら今の世を変えてくれるのでは」と、共感と期待を抱かせることに成功し、選挙に勝利したのであろう。
 では、彼はどのような大統領になるであろうか。以下はあまり当てにならない私の予測だということを承知の上読んでいだきたい。
彼はビジネスマンであり取引上手と思われる。彼が打ち出している大幅減税と公共投資強化の政策は、選挙前には対立していた共和党の主流派にも受け入れられ、企業の経営者には歓迎されると思われる。その一方、外国に工場を移転しようとした企業に圧力をかけたり、国境に壁を作るなど強引に行い、彼の支持者から喝采を浴びることもあろう。彼の任期中に経済は好転するかもしれない。しかし格差は是正されず、むしろ広がる恐れがある。また民族間の分断はより深刻さを増すであろう。つまり根本的問題は解決されないと私は見ている。

 
大統領選の結果は何を示唆しているか

アメリカ主導で進めてきたグローバリゼーションに対して、国内から「ノー」の声が沸き起こった。グローバリゼーションはアメリカの経済を成長させる効果があった反面、格差を広げ中間層の没落という深刻な事態を招いた。それは西洋先進国やアジアの国々、特に我が国に対する警鐘と受けとるべきではかろうか。 
日本の格差の進行は、まだアメリカほどひどくはなかろうが、非正規雇用者の増加などで、若い世代ほど中間層がやせ細って来ているようだ。「中間層が没落すると国が滅びる」などと云われるが、それが他人事ではない状況に近づきつつあるのではなかろうか。
次に、過激な不法移民強制退去を主張したトランプ氏の勝利は、移民、難民の受け入れ拒否を唱える、欧州の極右的ポピュリスト(大衆迎合主義者)たちを元気づけているようだ。彼らが勢力を伸ばすことで、民族主義、国家主義が蔓延し、EUは崩壊の危機を迎えると危惧する見方もある。しかし、欧州に民族主義の波が押し寄せるのは今始まったことではない。私は、EUが今までのあり方を見直し修正することで崩壊を免れ踏みとどまると見ている。ただ、移民に対しては今までほど寛容ではなくなるかもしれない。難民については人道的な面から受け入れて欲しいと願っている。
ところで我が国のように紛争地域から遠く、移民、難民についての受け入れ条件の厳しい国では、いまのところ、他民族排除を唱える極右が大きな勢力となる心配は少なかろう。私は難民受け入れについては、もっと寛容であってもよいと考えてはいるが。
最後に、今度の米国大統領選の結果によって世界は大きく変るのであろうか。私は今度の事件が直接、世界の大変動をもたらすことに繋がるとは考えていない。しかし、世界が大きく変化しはじめる兆かもしれないと予感している。多くの人々がアメリカ発のグローバリゼーションの限界を感じはじめており、新しい社会理念、方法論、価値観を模索する時代に入ったという意識を強めていよう。我が国の政治はよく米国追従などと評されているが、新大統領のもとでは追従ではなく、我が国の方からリードしてやらないと国際政治が乱れてしまう局面がもたらされるかもしれない。また世界の政治の中心軸が米欧から他の地域に徐々に移行して行くような気がする。そういう変化の中でアジア地域の重要性が増して来るかもしれない。特に東アジアに属する中国、日本、韓国はもっと連携と協調を強めて行く必要があるのではなかろうか。
なぜ、音楽雑誌にこのような記事を掲載する必要があるのだと、疑問視する人がいるかもしれないが、音楽文化も見えるところ、見えないところで、社会、政治、経済の強い影響下にあるものである。最近は我々の会の活動も経済的に年々厳しくなって来ているし、若い音楽家の卵が音楽活動を継続して行くことは以前にまして困難になって来ている。従って、音楽文化に関わる者も、政治、社会の動向を見つめ考えることが必要と私は思っている。

                          ((なかじま・よういち 本会相談役)

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