オウム事件と国立音大デモクラシー  

                                                                   一組合員より
  
                 
  
《オウム真理教事件》

【A】阪神大震災に続いて、オウム真理教事件というとんでもないグロテスクな大事件が起こりましたね。一体日本はどうなってしまったのでしょうか。
【B】私はオウム事件を知って、まず戦時中の神国日本、そしてナチスの第三帝国を思い浮かべました。すべて同じという訳ではないけど、本質的には非常に似たところがあると思います。オウム真理教は典型的なカルト宗教です。
【A】カルト宗教とそうでないものの違いはどこにあるのですか?
【B】例えば、キリスト教、仏教などの場合、生身の人間は絶対者にはなりえません。従って人が人を裁くことは罪なのです。牧師さんやお坊さんも、神や仏の心を伝える伝道者に過ぎず絶対者ではありません。したがって神の心、つまり真理は自分で探さなくてはならないのです。しかし、カルト教団では教祖自身が神であり、従って教祖の言葉は絶対であり真理なのです。本来宗教は人間存在の根底に目を向けさせ、人の魂の自立を支援するものでしょう。しかしカルト宗教の場合、信者の魂を教祖に隷属させることを要求する。
【A】つまりカルトの教祖は、精神的な独裁者ということですね。
【B】そう、信者は心を支配され、やがて行動まで支配される。
【A】それにしても麻原教祖のオウム教団はなぜあのような事件を起こしたのでしょう。
【B】新興宗教の多くは終末思想をもっていますが、麻原オウムの終末思想は、終末を恐れ、それを避ける努力をするというのではなく、終末を待ち望むといった色合いが強いと思います。彼の言うハルマゲドンとは第三次大戦が起こり、核爆弾や毒ガスによって殆どの人類は滅ぶ。その中で神仙民族(オウム)だけが生き残り、光輝く未来の国家(オウム王国)と文化を創造して行くということです。ハルマゲドンとは表面的に解釈すると、神の力と悪の力が戦う最終戦争ということですが、最後に勝利するオウムこそが神の勢力で、それと敵対する勢力は悪ということになります。麻原がいう救済計画とは最終的には多くの人間をオウム信徒にすること。そして現世でオウム信徒にならない人間はポア(殺し)し、来世において神仙民族に取り込むということだったのではないでしょうか。麻原がそのような強い現世否定思想を抱くようになった背景には、身体障害者というハンデを持ちながら世の中での成功を夢見て努力したものの挫折した彼の、この世に対する激しい呪詛があると思います。「自分のような尊厳のある人間を排除、迫害するこの世は欺瞞に満ちた偽りの世であり、そのような世は壊して本物の世に作り変えなければならない」という狂信的な執念でしょう。一方オウムに入信した若い信者達も、やはり自分の日常生活に対して不安やむなしさを感じていた。そしてオウムに入信することで、最終解脱者を目指して身心の修業を積むこと、また壮大な人類救済計画(それがどういうものか一般の信者には本当の実体が知らされていなかった)にかかわるという二つの大きな目的を持つことが出来、輝かしい人生の意義を手に入れたように思った。
【A】それにしても、オウムの幹部は高学歴者が多いですね。幹部クラスの二十数名だけをみてもT大(休学者も含む)の三人をはじめ、一流大学卒業者がずらりといる。彼らは賢過ぎて道を誤ってしまったのでしょうか。
【B】高学歴だから賢いということはないでしょう。君がそういう見方をするのは君が高学歴崇拝教に洗脳されているからですよ。(笑い)
【A】オウムではサリンを大量生産し、今年の十一月には多くの噴霧車を出動させ、都内で大規模にサリンをバラまく計画立てていたようでうね。
【B】大戦争のキッカケにしよう考えたんでしょうが、そんなことをしても人が大勢死ぬだけで、九九・九九%大戦争のきっかけとなりえないことは高校生程度の、歴史、政治、経済の知識を持ち、それらを組み立てて総合判断する知力があれば容易に推論できる。
【A】オウムに入信したエリート達の入信前の人物像の平均値は、学業成績優秀で正義感が強く思いやりがあり、礼儀正しい。親から見ても教師からみても良い子で、親の自慢のタネ。といったもののようですが。
【B】彼らの多くは真面目におとなしく敷かれたレールの上を走っていた。ところがやがて自分の生き方に疑問を持ち、「人は何のために生きるのか」、「自分の人生はこれでよいのか」、「今の世の中はこれでよいのか」などと考えるようになった。そういう状態こそ自我の覚醒であり、たとえ、まわりの人間が自分の心を理解してくれず孤独にさいなまれたとしても、人と交わり、書物を読み、芸術に接し、行動し、思索し、自分なりの答えを探求する努力を積み重ねることで自我は育成され魂は深められて行くのです。彼らの多くが基本的にはまじめで良い資質の持ち主であった可能性はあります。しかし、彼らは自分で自ら探求して行く努力を持続できず、麻原が与えてくれた解答に飛びついてしまった。敷かれたレールの上を走っていてふと考えて立ち止まったものの、今度は麻原の敷いたレールの上を走らされてしまった。大切なのは、レールも道も無い薮の中に、自分で道を切り開き歩むことの出来る精神的自立力を持つことなのです。
【A】つまり個の確立のための努力ということですね。
【B】オウムの事件に接して、年輩の人は「今の若い者はさっぱりわからん。人間が出来ておらん」と思ったかもしれませんが、もともと我が国では一部の文学青年、哲学青年の間ではともかく、個の確立というテーマが一般的になったことはなかった。我が国では人はふところの深い世間の中に生き、その中で鍛えられ人間が形成されて行くというのが、通常のあり方だった。世間とは具体的には家族、親戚、隣人関係、職場など、それに場合によっては国家を考えてもよいでしょう。ところが、終戦から十数年くらいの間でしょうか、多くの人々が自分自身と心を見つめ直そうとした時期があった。それは、戦時中は国難を乗り切るため国民が我欲を捨てて一致団結するというように倫理的に昂揚した時期であったにもかかわらず、国家は大きな過ちを犯していた。これはオウムの事件にも通ずるところがあるでしょう。従って単純に国家を信じ、それに取り込まれて行くだけではだめだという考え方が芽生え、個の主体性の回復、個の責任の自覚といったことが根本的課題と成り得た。本多秋五という文芸評論家が「エゴを極限までおしすすめエゴを乗り越える」などという発言をしています。
 ところが高度経済成長の流れの中で、いつしか「個の確立」といった根本的な精神的課題は風化して行った。一方、いつしか家族は核家族化し、隣人関係は薄くなり、職場は単に生活の糧をうるための場となり、かつて人間を鍛え育んだ世間そのものの実体が希薄になり、その機能は弱められた。つまり、現在人間は精神的に確たるものをもたず宙ぶらりんのような状態になりやすくなっている。オウムに惹かれて行くわが子に対して、親は世の常識論を振りかざすだけで、確たる自己の信念や思想を示すことが出来ず、「お前は教団に洗脳されているんだ!せっかく勉強してX大の医学部に入ったんだ、医者を目指して勉強しろ!」などと叫び、息子に「一体それが何になるんですか!あなたこそ世の中の常識に洗脳されているだけですよ!」と反撃されて、返す言葉も出てこなかったというようなケースもあったのではないかと想像しています。
 私はここで改めて自分自身を見つめ直すこと。そして個の形成の重要性を訴えたい。

 《本学におけるデモクラシーのあり方》

【A】しかし、本学は芸術系の大学。音楽家達は言葉で自己表現することが不得意でも、みなさん自分の芸術上の主張を通して、確たる考え方や生き方をお持ちなのではないでしょうか。
【B】私もそう思います。そしてそれが出発点でしょう。しかし、自分を主張するだけではなく、他人の主張にも耳を傾ける努力が必要です。それも自分の身の回りの同業者の声だけでなく、出来るだけ広くです。そうすると色々な生き方や考え方に出くわすでしょう。その中には自分とはまったく異なっていたり、場合によっては理解できないものにも出くわすかもしれません。しかし、他人を知ることで、かえって自分自身が明らかになって行くのです。
【A】でも考え方がまったく食い違った時はどうしたらいいんでしょう。
【B】個人的に話すだけなら、「世の中には色んな考えの人がいるものだ」と、改めて認識するだけでもよいのですが、もし集団でものを決めるとか、協力して一緒に何かやって行く必要がある場合はそれだけではすみません。しかし、ただ波風を立てないようにと妥協するだけでは前向きの成果はいられないし、そうかといって、互いに主張しあい平行線ということでは非生産的で、しまいには人間関係さえ壊れてしまう恐れがある。
 話しを変えますが、本学には有馬元学長のおっしゃった「音楽は人を同じうする」という意味から来る『楽同』という言葉がありますね。この場合の『同』という意味は、「偉い人、偉くない人というような差別がなくなり共に音楽を楽しむ仲間となる。」という意味で、「個性を失い等質になる」という意味ではありませんね。主権天皇の憲法のもと、まだ華族も存在したような時代に育った人々にとって「音楽は人を平等にする」という意味のこの言葉は、非常に新鮮で感動的なものに感じられたことでしょう。しかし、自由と平等は民主主義の骨幹となるべき価値観で、戦後憲法でもはっきりと保証されています。従って今の若い世代の人々(オウムを除く)にとって、自由と平等という価値概念はすでにしごく当たり前のものとして受け入れられています。
 しかし、人間がみな自由に生きれば、当然色々な考え方、価値観を持った人が出てきます。そういう中で人々がただ野放しに自己の権利や意見を主張しあうだけでは、社会は大混乱に陥ってしまうかもしれません。つまり、自由、平等が保証されている社会とは、異なった主張のぶつかり合いや、利害対立が絶えない社会ということになります。では混乱を避けるため、ヒットラーや麻原彰晃のような人にすべての裁量を任せればよいかというと、それでは独裁主義になり、個人の自由は損なわれます。それでは、自由や平等の原則を損なわずに、混乱を超克して行く方法はないのでしょうか?あります。それがデモクラシーという制度なのです。私はデモクラシーとは美しい教条や建て前ではなく、実践的な方法と考えます。
ですから、それぞれの国や組織の性格や実状にあわせて、制度も運営方法も異なるものが存在するのです。
【A】ということは、我々の組織、国立音楽大学においても、それに相応しい制度、運営方法を模索して行く必要があるということですね。
【B】そうです。全学的なものにとどまらず、それぞれの部会などにおいてもです。幸いにして大学教育問題協議会で、学園通則などの抜本的な改革が提案されていますね。制度面の改革は協議会の案を推進させて行くことで、これからの本学に相応しい制度の骨格が出来上がって行くように思います。ただ重要なことで、協議会の答申から落ちているものがあります。
【A】それは何ですか。
【B】それは制度、規則という形で成文化出来ない、本学のデモクラシーの運営のあり方に関してです。
【A】不文律のようなものですか。たとえば本学には出来るだけ『和気あいあい』とやって行こうとか、何か事が起こっても、出来るだけ穏便に収めようとかいう伝統はありますね。
【B】『和気あいあい』は良いことだけど、今は様々な個性や才能を持った人間が必要な時です。そういう人々が真剣に意見を主張し合った時、単純に『和気あいあい』とは行かない場合が多いでしょう。また、事を起こさないようにすること、穏便におさめることも必要だが、ただ事が起こらなければ良いということではないでしょう。事が起こるリスクもあるが、事が起こらぬことによるリスクについても考えに入れる必要があります。
 ですから、ひたすら事が起こらないようにと消極的になるだけではなく、むしろ、事が起こった時、どのように処理すればよいのか、色々なケースについてみんなで知恵を出し合い解決法を考え、それを本学のデモクラシー実践のノウハウとして蓄積して行く必要があります。
 例えば、私が属している文化団体の場合、機関誌等でAさんの論に、Bさんが反論して来た場合、Bさんの意見を掲載しますが、さらにAさんが再反論した場合も、掲載するようにしています。従って、どちらかが止めないかぎり、誌上論争は永久に続きます。
 また、NさんとYさんの間で抗争が起こった場合、委員会で必ず両方の言い分を確認してから処理するようにしています。それは出来るだけ公平に処理しようという考え方に立つからですが、それと同時に大きなトラブルに発展するのを防ぐための知恵でもあるのです。ただ、これはよその例ですから、本学は本学の実状を踏まえ、本学なりのやり方を模索しなくてはなりません。勿論、各部会なども同様です。
【A】それから、管理職のあり方というのも重要ですね。管理職が現場の人間の頭越しにものを決めてしまうようだと、現場の人間はやる気をなくしてしまうし、そうかといって「すべて現場にお任せします」というだけのことなら、管理職などいらないことになる。普段は寛容な精神で見守っていても、時にはより大局的な見地に立って指示したり、示唆を与えることも必要になる。
【B】管理職が判断と処理を誤ると、こじれなくてよいものまでこじれ、結果的に大学に対して非常に大きな損失をもたらしてしまうことがあります。従って、管理職には広い視野に立ってものを見渡せる能力、的確な判断力と決断力、誠実さといったものが強く要求されます。しかし、管理職だって人間ですから、完璧さを望むのは酷でしょう。失敗した後の処理方法も含め、管理職、管理職と現場の人間の係わり方について、本学なりにノウハウを蓄積して行く必要があります。
【A】他に何が必要ですか?
【B】そうですね。本学では色々な問題について、教員同志が突っ込んでディスカッションすることはなかなか難しいようですね。文書での論争も含め討論の積み重ねは、デモクラチックなあり方でものを推進して行くたにめに非常に重要なことなのですが。
【A】音楽の先生方が多いからでしょう。音楽は音で表現する芸術ですから、多くの音楽の先生方は言葉で自分の意見を発表するのが得意ではないのだと思いますよ。
【B】なるほど、そうですね。我々は会議などにおいても、相手の言葉の揚げ足をとって理屈を言い合うような議論は出来るだけ避けて、たとえ発言された先生が口べたであっても、その発言の真意を理解するよう努力し、それが正しいと思える時には積極的に支援して行くことが必要でしょうね。
 それから、ディスカッションが実りある結果をもたらすためには何が必要かということを、みんなで考える必要がある。
 例えば教員会議などで、誰かが「我々はいかなる教育が学生のためになるかを十分考えその目的にそって努力する必要がある」というような発言をしたとする。その原則には誰もが賛成だろうから「そうだ!そうだ!」ということになり、そこで討論を打ち切れば、和気あいあいで終わることが出来る。しかし、それでは、何ら具体的な実りをもたらさない。では、次に「何が学生のためになる教育か」、ということを突っ込んで議論し始めると、色々な意見が出てきて、議論が堂々めぐりになったり、意見対立が起こり混乱したりするかもしれない。議事で芽生えたものを生かし、大事に育て、それを大きく実らせて行くためには、議長の議事運営能力、管理職の判断力、決断力といったものも重要ですが、教員の心構えが大切です。相手の意見を批判することは自由でも、個人を中傷することは避ける。反論された方も相手は自分の意見を批判しているのであり、自分の人格が否定されているわけではないという事実を認識し、被害者意識を持たないようにする。論争での対立は論争で解決するよう努めるべきで、それに根を持ち、ほかのところで足を引っ張るようなアンフェアなことはしない。このような暗黙のうちのモラル、つまり不文律をつくり、みんなでそれを守って行くように努めれば、誰もが安心して自分の意見を主張できる土壌が形成され、やがて議論することにも慣れ、より大きな実りをもたらしうるように変わって行くのではないか、と考えます。
【A】どうも今日は長い間ありがとうございました。
                                (国立音楽大学教員組合新聞:1995年7月号より)



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