生誕100年を迎えた太宰治と若者たち  作曲:中島洋一

    


 実は今年が作家太宰治と松本清張生誕100年に当たることも、生まれ育ちも、作品の傾向もまったく異なる二人の作家が同い年だったことも、たまたま牛込を歩いていて、講演会か何かの看板を目にするまで、まったく気がつかなかったのである。
 太宰は私の青年時代には、すでに伝説の人になっていたが、松本清張は人気絶頂の現役推理小説作家であり、作家としての活動期が重なっていないから、同年の生まれとは思えなかったのであろう。
 太宰治(本名:津島修治)が愛人の山崎富栄と天川上水に入水自殺し、死体が上がった日が、奇しくも彼の39回目の誕生日6月19日で、その日を、太宰の短編『桜桃』にちなんで「桜桃忌」とし、毎年太宰を偲ぶ会が開かれていることは、あまりにも有名である。
 私が最初に太宰治を意識したのは、音大3年の頃、下宿の小母さんの親戚で、私が下宿していた家に時々訪れていた青年の影響による。彼は私より4つくらい年上で、弁護士を目指し上京していたのだが、大変な文学青年で、彼とはよく文学について語り合った。ある日、本が増えたので大きな本棚を手作りしたが、彼は本を棚に並べるのを手伝ってくれ、その際、本を手にしては「ヘッセ、彼は愛国心がないから嫌いだ。ジッド、彼はいかさま師だ。」などといちいち批評し、「君は僕が嫌いな作家ばかり読んでいるね」などと冗談混じりの嫌みを言った。
彼は熱烈な太宰信者で、彼の説によると、太宰治は人の真実のあり方を求めて闘った英雄ということだった。そして、[ザイン(sein)、ゾルレン(sollen)]という哲学用語を耳にタコができるほど聞かされた。彼は私と議論した後、「君は自信家だね。でも、そのうちに君の心にコペルニクス的大転換が起こるよ。」と語った。彼の予言は的中し、数年後、私の心は、本当にコペルニクス的大転換に襲われた。ただし、そのきっかけとなったのは太宰治ではなく、ドストエフスキーであった。
 ドストエフスキーの嵐が去った25歳の頃、彼にあまりしつこく薦められたことで、かえって反発し避けていた太宰治だったが、無性に読んでみたくなり、筑摩書房の全集を予約した。読みはじめてみると、その魅力にすっかり取り憑かれてしまい、毎月の配本が待ち遠しい程だった。そして1年で全13巻を読み終えたが、書簡まで含め、すべての著作物を読破した作家は、後にも先にも太宰治だけである。さらに、山岸外史の『人間太宰治』など、彼を取り巻く人々の著書も色々読んだ。
 私が太宰文学の魅力を知った頃は、自分と太宰を一体化し、[自分こそ真の太宰理解者]と信じ込む、いわゆる『太宰病』に犯される年齢は脱していた。私の周囲にも太宰病患者がいたが、そういう人間と出逢うのが億劫で、『桜桃忌』には、一度も顔を出したことがない。
 三島由紀夫は「自分の弱さを売り物にするとは」などと、太宰文学を痛烈に批判しているが、確かに太宰の場合は、露悪的に自分自身を暴いてみせても、最後には自分自身を許してしまうところがある。最後の大作『人間失格』では、作者の戯画的分身と思える主人公の葉蔵について、彼と関わりのあったバーのマダムに、次のように言わせて終わっている。「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・・神様みたいないい子でした。」
 太宰文学は私にとっては、若い頃の瑞々しい感性を取り戻すための回復剤である。そして、生誕100年を経た今日でも、いまだに多くの若者達が太宰治の作品を愛読していることを知り、親近感と安堵感をおぼえる。
なぜかというと、そういう若者たちは、間違いなく、繊細でやさしく、そして傷つきやすい魂を持った人たちであると確信出来るからである。そうでなければ、太宰治とは触れあうことなく、素通してしまうであろう。
             (本会理事・相談役 なかじま よういち)


                                                      『音楽の世界』2009年8/9月号論壇(巻頭文)として掲載 

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