私と読書〜 「19世紀ロマン主義の展開と黄昏」の発表を前にして
作曲:中島 洋一

 発表を前にして

 今回の発表内容は、19世紀から20世紀に至る芸術思潮の流れを、音楽を中心にしながらも、文学、美術、思想などまで広げて探ってゆこうというものです。とんでもない誇大妄想的試みをするものだと、お思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、大風呂敷を広げようという魂胆はさらさらなく、ただその時代の音楽芸術を掘り下げて探って行こうとすると、どうしても音楽だけではなく、文学などの他芸術、さらに歴史、社会といった背景にあるものまで含め総合的に見て行かないと、捉えきれないような気がしているからです。
 そうかといってしがない一音楽家に過ぎない私が、それらをすべて網羅できるような識見を有しているはずがありません。また所詮、人間は自分の心で受け止めたものを通してしか、対象を解き明かして行くことはできません。
 それは、もしかすると、19世紀→20世紀の芸術、思想の流れを解き明かそうとしながら、結局は自分の心の歴史を解き明かそうとする試みとなってしまうかもしれません。しかし、それはある程度しょうがないこととしてご容赦いただきたいと思います。
 今回の発表は近代の西洋に焦点をあてていますが、それは現在の我々日本人にとって、決して他人事、対岸の事ではないと思います。我々現代の日本人の歴史は、西洋の近代との触れ合いを抜きにしてはありえないことでしょう。 それを掘り下げようとする試みの先には、我々、あるいは自分は何者なのだ、という【問い】が待ちかまえているものと思います。
 しかし、19世紀→20世紀の芸術、文化、社会、思想の流れを総合的に捉えようといっても、私は一音楽家であり、やはり音楽を内容の中心におくしかないと考えています。
 そこで、この文においては、音楽とは別の面で、私が大きな影響を受けた文学を中心に、私の読書歴について振り返ってみたいと思います。退屈な記述が続くかもしれませんが、おそらく、今回の発表と内容的に深く結びつくものになると思いますので、お読みいただけたら幸いに存じます。

 
少年時代の読書
     
 私は小学生の頃は、当時の田舎の少年としては珍しいほどの読書好きの少年でした。しかし、特に早熟でもなく、また刺激の少ないのんびりした田舎に育ったものですから、読んでいる本も大抵が年相応のもので、姉弟や友達の間で回し読みした少年少女雑誌以外では、童話の本か科学の本、あるいは文学書を少年向けにアレンジした本がほとんどだったように記憶しています。私の家では、母が少しハイカラだったせいか、戦後間もない時代の田舎の家庭としては珍しく、子供達の誕生日には誕生祝いをしてもらいましたが、プレゼントには毎年本を買ってもらいました。また、私が小学校3年の頃になると、ようやく学校の中に図書館が開設され、本の借り出しが出来るようになりましたので、沢山借りて読んだ記憶があります。
 かなり多くの作家の作品に接した記憶がありますが、特に好きだった作家は、アンデルセン、小川未明、オスカー・ワイルドなどでした。グリムはあまり好きではありませんでした。小川未明は私が生まれ育った新潟県出身の童話作家ということで、よく読まされました。それとオスカー・ワイルドについてですが、彼が『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』の作家だったということを知ったのは高校に入ってからです。しかしなぜか彼の『幸福な王子』、『大男の庭』といった童話が好きでした。そこには美の追究のため既存の道徳に反逆した人間の疲れた魂から生ずる祈りがあり、子供心にその祈りを受け止めえたからかもしれません。『幸福な王子』では、暖かい国に帰ろうとしていたツバメが王子の真摯な頼みを断り切れずに、恵まれない人々に王子の体の一部である宝石や黄金を届ける用を何度も足し、最後に自分の目まで与えてしまい、目が見えなくなった王子の傍らで「さようなら」といって、力つきて冷たくなって落ちて行くくだりは、涙なしに読むことができませんでした。
 またアンデルセンは特に好きな作家でしたが、今はそれには触れません。ただ、彼は紛れもなく今回の私の発表につらなるロマン主義時代の代表的童話作家でしょう。
 読書少年だった私でしたが、実母の死を経て中学生になった頃は、ほとんど文学書は読まなくなりましたが、その代わりに漫画本を読みあさりました。その中でも手塚治虫の漫画は、特に夢中になって読みました。そして、彼の作品だけは他の漫画作品に比べ、数段高いものと感じていました。私はいまだに手塚治虫の大ファンで、今度、彼の作品を題材にした大作の制作を計画中です。

 
ゲーテについて

 高校に入り、2年頃から音楽の道に進もうという夢が頭をもたげはじめましたが、多分高校3年の時、書店でロマン・ロランの『ゲーテとベートーヴェン』という文庫本を見つけ、当時は、ロマン・ロランのこともゲーテのこともほとんど知らなかった私ですが、ベートーヴェンは凄い作曲家だと思っていましたので、その名前につられ、乏しい小遣いをはたいてその本を買い求めました。
 その本では、二人をとりまく色々なエピソードなどが高い格調で語られ、再び私の心に読書の喜びを呼び覚ましてくれました。そこで、ロマン・ロランは多くの作曲家がゲーテの『ファウスト』の音楽化を手がけているが、ゲーテの精神と同じ高みに立って音楽を書くことができるとしたら、それはベートーヴェンしかいなかったのではないか、というようなことを書いていたのを読んで、いつか『ファアスト』を読んでみようと思いました。
 ほとんど受験勉強らしい勉強もしていなかったのに、とにかく現役で音楽大学に受かりましが、一年時は姉と一緒の下宿生活でなかなかゆったりと読書する時間が持てなかったものの、二年生になった時、新しいピアノを買ってもらい、それが置ける下宿に移るため、姉と別れ、小平学園に一人で下宿するようになりました。そこでゆったりと読書に集中できる環境を得た私は、筑摩書房の世界文学大全集のゲーテを買い、『ファウスト』の全編を一気に読み通しました。その時代は、学生達、特に東大などエリート校の学生達の間は、文学書といえばサルトルとか吉本隆明などが流行っており、そういう本を小脇に抱えて、知的虚栄心を満足させているような学生もいたように記憶しています。そういう中で、おそらくゲーテの『ファウスト』など読んでいる学生は比較的珍しかったのではないかと思います。しかし、読んで非常に感動したことを覚えていますし、未熟ながら、そこにヨーロッパの精神の核となりうるような貴重なものがあると感じました。その後、同じゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代と遍歴時代』を読んだと思います。
 それで、今回の私の発表において、ゲーテをその原点として位置づけてみようと考えたわけです。ゲーテの後は、多分、スタンダール、バルザック、フローベルなどのフランスの小説だったと思います。しかし、フランス文学の印象はそれほど強くはなかったのです。また、ボ−ドレール、ヴェルレーヌなども少し読みましたが、私は言葉に対する感覚が鈍いせいか、また、読み取れる語彙が貧しいせいか、詩、特に翻訳詩は苦手でした。ボードレールなどは、ちゃんと読みこなせたのは『パリの憂鬱』という散文くらいだったような気がします。

 
文学青年との出会い

 やたらと読んだ本の名をあげてもしょうがないので、好きだった作家をあげると、ボードレールを読んでいた頃、並行して読んだポーの短編は非常に好きでした。また、トーマス・マンは途中で投げ出しましたが、ヘッセ、カロッサなどのドイツ文学は好きでした。そして、あのゲーテとベートーヴェンを書いたロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』も非常に好きな作品でした。そこには、分裂し、崩れかかろうとする西洋の精神文化を必死で立て直そうとするかのように、おそらく時流に逆らって、理想的な人格の創出にこだわり続ける西洋の良心を感じました。彼が抱いたドイツ的精神、文化と、フランス的なそれとの融合をめざす理想は、いまフランスとドイツが中心になって進めているEC化の流れと、底流でつらなっているのかもしれません。
 それから、忘れられないのは、私が大学3年〜4年の頃だったと思いまが、下宿の小母さんの親戚の息子で、新潟大学を卒業し、弁護士になるため司法試験合格を目指して勉強しているという文学青年がおり、よく下宿していた家に遊びに来ておりましたが、文学や音楽の話題を通してすぐ親しくなりました。彼は太宰治を深く敬愛しており、太宰は自分の純粋性を守るため英雄的な戦いを繰り広げた人間、というのが彼の太宰に対する評価のようでした。文学書は好きでしたが、哲学書はからっきし苦手で読まない私に、彼はしつこく哲学問答を仕掛けて来ました。彼との対話を通してザイン(Sein)、ゾルレン(Sollen)などという言葉を頻繁に聞かされたのを覚えています。
 またある時、私の部屋の書籍が大部増えたので、大きな板を数枚買い、手製の本棚を作り本を並べた時、彼が手伝ってくれましたが、並べられた本を見て、「君は僕の嫌いな作家ばかり読んでいるね」などと言いました。彼は本の背表紙を見て、いちいち「ヘッセは愛国心がないから嫌い」だとか、この作家は何々で嫌いだとか、その理由を説明してくれました。ジードの『狭き門』、『背徳者』について議論したとき、この小説には「作家のこのような思想的問いかけが隠されているのでは」と私が説明すると、「多分、君がいう通りだと思うけどジードはいかさま師だから」、と答えたのを覚えています。ジードの小説に対する私の解釈については、またの機会にしたいと思います。 
 前述したように、彼の太宰に対する思い入れは大変なもので、彼が考える太宰の思想的な位置づけについて、小さい字でビッシリ書いた紙をもらったのを覚えています。私がその頃、あえて太宰治を避けていたわけは、彼があまりにもしつこく太宰を読め読めと勧めるので、それに対する反発があってのことだったと思います。太宰文学に接したのは、この後話すドストエフスキーの衝撃を通過した昭和42年からです。筑摩書房から新しく出された全集を予約し、読みましたが、毎月の配本が待ち遠しく思われるほど、太宰文学の魅力に取り憑かれました。しかし、太宰と自分を同一化してしまうほど太宰にかぶれ、太宰病患者になってしまうといった年齢はすでに過ぎておりましたので、ある程度、距離をおいて太宰を読むことができました。しかし、書簡に至るまで著述物のすべてを読破した作家は、後にも先にも太宰だけです。
 ところで、彼の話に戻しますと、彼は司法試験はだめだったらしいのですが、代わりに高文(高等文官試験)に合格し、郷里の新潟に帰って行きました。彼は新潟に帰るとき下宿に立ち寄り、私に挨拶して行こうとしたらしいのですが、私が留守だったのでガッカリしていたと下宿の小母さんが言っていました。その後、彼との音信はありません。おそらく高文を受かったのだからキャリアとしてお役所勤めに就いたのでしょうが、どんな役人になったのでしょうか? どうしてもあの頃の彼の人柄からは、お役人という職業が似つかわしくないような気がしているのですが。

 
ドストエフスキーの嵐

 さて、大学の4年頃から、チェーホフ、トルストイ、ドストエフスキーといったロシア文学に接するようになりました。その中で好きな作家はチェーホフでしたが、非常に強い衝撃を受けたのはドストエフスキーでした。『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』といった大作に接しましたが、高山の崖の上に立ち、すぐ足下から落ち込む深い谷を見下ろしていると、誘い込まれ、谷底深く落ちてしまうような恐怖におそわれるように、ドストエフスキーの文学からは、人間の魂の深淵に誘い込むような、魔力のようなものを感じました。自己存在の意味は? なぜ殺人は悪しき行為なのか? もし自分が『殺人が正しい』という価値選択をしたならば、それがたとえ法律的には犯罪であっても、倫理的には正しいことになるのではないか? などと、日常生活に埋没している人間なら、馬鹿馬鹿しいと一笑に付すようなことを、本気になって考えたものでした。ドストエフスキーを読んだことをきっかけに、すべての規範の価値観、倫理観を疑うという根元的な懐疑の闇に突き落とされた私でしたが、そこからの脱却、心の救済への灯りを照らしてくれたのも、やはりドストエフスキーでした。
 ドストエフスキーの嵐に襲われていた頃より、ちょっと後のことですが、大江健三郎が若い頃書いた『厳粛な綱渡り』というエッセイ集の中で、「自分は年に一回、一週間だけドストエフスキーの小説だけを読んで過ごす。それは自分にとって『聖週間』である」といったことを書いていますが、大江が言っていた意味がわかるような気がします。
 ドストエフスキーを読んで啓示をうけたことは、いろいろありますが、その一つに善と悪の問題があります。善と悪は対極にあるものではなく、お互いにごく近くにあるものだということ。そして、大きな善への志向は、魂のわずかな誤りによって、つねに大きな悪に変貌して行く危険性を孕んでいるということです。
 また、当時は、マルクス・レーニン主義が多くの若者達の心を捉えていたようですが、私はマルクス・レーニン主義によって容認されている、プロレタリアート独裁(共産党独裁:一党独裁)という考え方を通して、マルクス・レーニン主義に対する大きな疑いを抱きました。それについては、社会的不公正の是正と解消を目指すという理念は正しいが、論理が間違えている、というのが私の下した結論でした。確かに人間は社会によって作られます。しかし、社会もまた人間によって作られ、変貌して行きます。そして、人間は経済階級といった一面的図式だけでは到底捉え難いものであること。一党独裁という制度は、前述した「大きな善への志向がわずかな誤りによって大きな悪に変貌して行く」という人間の脆さ、「常に精神の自由を維持し批判精神を持ち続ける苦しさに耐えきれない人間の心の弱さ」、そうしたものとが相まって、修復困難なほどの権力側の悪しき独裁に陥る危険性を孕むと考えたからです。
 マルクス・レーニン主義、唯物史観といったものに対して懐疑を抱いた私ですが、唯物史観に立った歴史分析法について、ある範囲での有効性を認めないわけではありません。ただ、それですべて解明しようとすることはまったく不可能であり、それができると考えることは妄想に過ぎぬということです。
 また、1972年に起こった浅間山荘事件を核としたリンチ殺人事件などを含む一連の連合赤軍の事件は、ドストエフスキーの『悪霊』そのものが現実となって現れたようで、ゾッとしました。リンチ殺人を行った彼らと、『悪霊』ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーがどうしても重なって見えてしまうのです。

 
終わりに

 ドストエフスキーのことはこのくらいにし、ドストエフスキーの嵐が通り過ぎる頃、カフカ、カミユなど現代文学を多く読むようになり、そして太宰治をはじめとして、日本の近代、現代の文学を夢中で読む時代が続きました。その頃は、一瞬ですが、自分が本当にやりたかったのは文学ではなかったのかという想いが頭を掠めたこともあり、『文学界』という文学雑誌も定期購読していました。そこで、柴田翔の『されど我らが日々』のほか、丸山健二、なだいなだ など、今でも現役で活躍している作家のデビュー作なども読んだものです。
 ところが、中年以降になると、読書量自体もめっきり減り、読んでもコンピュータ関係の技術書とか、自然科学関係の教養書、歴史書などに重点が移り、文学書を読む機会は非常に少なくなってしまいました。もう、心の求めるまま駆られるように文学書をむさぼり読んだ青年時代はずっと遠くに去ってしまったような気もしますが、その頃の読書経験がその後の私の精神生活に強い影響を及ぼし続けていることは、まず間違いないことと思います。 

(この文章は、メールマガジン版『音楽の世界』第3号に掲載されたものを、修正加筆したものです。また、この発表は6月21日に東京都内で行われますので、本号の刊行時点ではすでに終了しておりますことをご了承下さい。) 

            (なかじま・よういち 本会事務局長) 

『音楽の世界』2003年7月号掲載

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