戸田邦雄さんに聞く 〜外交官で作曲家であった人生
ききて 編集長 助川 敏弥
戸田邦雄氏は日本作曲界の長老の一人、一九一五年生まれで、作曲をこころざしながら外務省に入り、外交官としてヒトラー時代のドイツ、スターリン時代のソ連を経験、敗戦をサイゴンで迎え、イギリス、フランスによる抑留生活の後帰国された。作曲家でありながら外交官という、詩人ポール・クローデルや、幕末のイギリス公使で文筆家であったオルコックを思わせる日本では貴重な人である。音楽を超える広い視野の持主として長時間お話を聞かせて頂いた(東京、成城の陶右衛門にて)。
音楽との出会い
助川 先生は、大学を出られてすぐ外務省にお入りになって、諸井三郎先生に作曲を師事されたのはその後ですね。
戸田 一九四一年、戦争の始まる直前ですよ。
助川 音楽との出会いはいつ頃ですか?
戸田 子供の頃から家にピアノとか、ストップが沢山ついたオルガンなどがありましてね、ピアノは母のもので、弾いていた記憶はありませんが弾いている写真はあります。母は京都の第一高女の卒業で、昭憲皇太后が行幸になった時に一人だけ選ばれて歌を歌ったというから才能がなかったわけではないのでしょう。母はまた生田流の琴も弾いていました。私が中学に入ってからは長唄を習って三味線も持っていました。叔父の尺八も聞いたことがあるし、中学の頃、弟が学校のクラリネットを借りてきてうちにころがってたこともありました。子供の頃、渋谷のうちの二階で親類の小父さんたちが集まって観世流の先生を呼んで謡曲の練習してました。二番目の弟はピアニストで永井進先生の演奏に感心して弟子入りして東京音楽学校に入り、その後もずっと永井先生についていました。ですから私はピアノはたいして弾けないけどピアノの書法や運指法なんか弟と中学時代からずいぶん議論したものです。それから京都の私の従姉の娘が声楽家で、メシアンとかシェーンベルクとか歌ってますよ。夫が作曲家で安部幸明と広瀬量平の二人に師事した柱本優という名です。妻の方の名は、めぐみ、です。
助川 ピアニストの弟さんは兵隊に行かれたんですね。
戸田 戦争に行って、もう少しで終戦という時に中国戦線で病気で亡くなりました。戦病死しました。
小学校および七年制高校の自由な教育のなかで
戸田 小学校は青山師範付属小学校でした。渋谷に居ましたから渋谷から表参道を歩いて通いました。
師範の付属小学校で、四年に一度実験クラスというのがあり、一人の若い先生が六年間自分が考えた教育方針で全然拘束されずにやってみる。私の先生は山口先生という方で、後に泰明小学校の校長になられたり映画倫理規定の委員になられたりした方で、師範学校では修身と音楽を特に勉強された人でした。ご自分でピアノを弾いて子供の声でも二部合唱や三部合唱をやらせたり、はじめから五線譜を読ませたり。これは教育方針として特筆大書していいと思うんですが、六年間、試験、成績、順位、通信簿は一切廃止するという教育で、これは非常によかったですね。いまの偏差値とか進学予備校なんかとまるで逆で、大正時代の自由主義教育だったです。師範学校としては四年に一度そういう新しい試みをやってみて多少教育学の人体実験的な意味もあったのかもしれないけど、その先生は一生懸命で、本人に自分の能力を自覚させるためにテストはしても採点とか成績にして残すとかを一切しなかった。それから三年生の時かな、「もうそろそろ、良い事と悪いことを判断できる頃だから自分たちでクラスの規則を作れ」と言われた。それで、前の学年の生徒が机に沢山傷をつけたため机をすっかり入れ替えることになった。それで第一に「机に傷をつけないようにしましょう」という意見が出た。先生はそれを黒板に書いた。それから、「あだ名で呼ばれると不愉快になることがあるから、本当の名で呼ぶことにしましょう」これも書いた。こうして十箇条くらいを書いて、意見や反対はないか聞いて、意見がないと「決」と書いて、「自分たちで決めたことだから自分たちで守るように」と言われた。私たちもよく守りました。これは暴論だけど、いま子供の問題が盛んに言われていますが、小学校から大学まで無試験の文化教養講座みたいにした方がいいと思いますよ。科目単位で自分が聞きたいものをとるとか。採用する企業は困るでしょうけど企業のために犠牲になる必要はないわけですからね。
作曲を始めた頃
助川 作曲家になることを考えられたのは何時頃ですか?
戸田 とにかく当時東京音楽学校に作曲科はなかった。世間で「作曲家」というのは童謡や流行歌の作家のことだった。私が通った東京高等学校は当時できた七年制、五年の中学を四年に短縮して、さらに三年の旧制高等学校を追加した制度ですから、高等学校の受験勉強をする必要もなかった。
音楽との関わりを言えば、東京育ちだから、童謡とか、わらべうた、とかとの触れあいはほとんどないわけです。その代り、小さい時からうちに多少レコードがあって童謡劇みたいなものがあった。佐々紅華という人は後に「宵闇せまれば」など流行歌を作ったり、関西財界の援助を受けて生駒山頂にオペラ研究所を作ってそこでオペラを上演することを考えたんですが、それはうまくいかなくて晩年は日本の伝統音楽の研究をした人です。この人の「チャメコの一日」というのを繰り返して聴きました。ずいぶんファンがいるらしく、以前、安川加寿子さんが「週刊新潮」投書欄で「夫の安川定夫が子供に歌ってきかせているのですが、忘れているところもある。どなたか楽譜と歌詞をご存じないでしょうか」というので、私は一生懸命思い出して楽譜に書いて送ってあげたんです。歌いやすいようにいい加減にト長調で書いたら後に佐々紅華の娘さんのご主人が伝記を書いたんで買って来て読んだら楽譜がのっていて原曲もト長調でした(笑)。この曲の和音の使い方とか、一節の後に行くに従って一音節・多音符になるとか子供のためのものなのに工夫がこらされているのに感心したものでした。
助川 作曲を試みられるよいになったのはいつ頃どういうきっかけですか。
戸田 あの頃は大正の自由主義思潮から鈴木三重吉なんかの童謡運動があって「赤い鳥」という童謡の雑誌が出ました。また「コドモノクニ」という雑誌があって、それには北原白秋とか野口雨情とか有名な詩人が童謡を書いて竹久夢路なんかが挿し絵を描き、その中の幾つかに中山晋平とか本居長世とかが作曲した楽譜がピアノ伴奏つきで後ろに付いていました。中には有名になって残ったのもありますが、それを小学校の頃から見てたんですね。それで小学校の終りの頃かな、その中の作曲されてない詩に自分で勝手にピアノ伴奏をつけて作曲することを始めたんですよ。十三才から十六才くらいまでの間のことですが、ずっとあとその楽譜が出てきました。見るとピアノ・パートがあんまりみっともないのでその中の幾つかを六十才の時にピアノの部分だけを作り直しましたがね(笑)。
そのほかに小学校の終り頃に自作の詩に作曲したものもありました。ピアノ伴奏は作らなかったように思うが、ピアノ伴奏つきの楽譜が出てきました。中学頃書いたのかもしれませんね。しかし私は子供の頃どちらかというと自然科学的なものの方に興味がありましたね。「子供の科学」という雑誌があって、ラジオ放送が始まると部品を買ってきて記事を頼りに自分で鉱石ラジオを作ってみたりね。それからオモチャの電気機関車をパートから組み立てて走らせてみたり。しかし中学課程に入ると、後にミハルスというカスタネットみたいな教育用簡易楽器の社長になった上田友亀さんという人が音楽の先生で、音楽の授業は二年にしかなかったですが、一年の時に「ホフマン物語」の舟歌とかを多声部で歌うとかしましたが、変声期の子供に歌を歌わせるのが無理と覚ったのか、AABAというような形の旋律を作ることをやらされた。AとBを先生が作る、そしてAとAの部分を自分で作らせる。そして次第にほかのあちこちも自分で作るようにする。それはよかったんですが、おかげで何を考えても八小節形式になってしまうようになった(笑)。そこから脱却するのにだいぶ苦労しました(笑)。それを五線譜に書いて提出するようにしたわけですから、生徒は皆まがりなりにも五線譜で旋律の作曲ができたわけですね。
あの頃の下北沢
その頃は私の家は下北沢にありました。その頃の下北沢はいまと大違いで、北側は住宅ばかりで店は一軒もなかった。それから隣のもとの代田二丁目駅、今の井の頭線の新代田駅までの間はずっと森で、中に池があって蛙が沢山住んでいました。南側は二階の窓から見ると全部緑で、向こうの丘の上に赤い屋根が一つ二つちょっと見えるという、そんなのどかな所でしたね。その頃から文章も作文もほめられたし、油絵もやらされたんですがね、どういうわけか音楽に段々傾斜してしまったんです。自然科学は数学が大事ですが私は数学が全然だめで、代数の先生が頭がよすぎて説明を飛ばすんですよ。質問すると「ここは暗算で出来るから一行抜かしたよ」って具合でね。中学部に入った時はじめて点数をつけてもらいましたが、作文だけ甲でほかは全部乙と丙ばかりでしたよ。音楽も人の前で歌わせられるは苦手でしたが作曲に非常に興味を持って、先生に教室で和声を教えて下さいって言ったんですよ。そうしたら上田先生は 「それはちょっと無理だ」と言われた。その頃はじめて読んだ作曲に本は山田耕作の「簡易作曲法」っていう本がありました。「簡易ナニナニ法」という叢書の一つで、数年前神田の古本屋から来た案内に出ていたので取り寄せました。ほかの本と違う所は、普通は低音に和声をつけるやり方だが、実際には旋律があってそれに和声をつける方が多いいんでそういうやり方をしてるんです。もう少し後、高等学校の頃になって黒沢隆潮さんの対位法の本を読みました。話が前後しますが、さっきの童謡のこと、誰も作曲してない詩に作曲したのを今見ると、終止の所は基本形だが途中の和音は絶えず四六になっている(笑)。
外国語の詩に作曲する
助川 しかし、そういう自由な教育の学校にいらしたわけですけど、東大に入られる時はやはり入試が大変じゃないですか。
戸田 理科系はだめだから高等科では文科の乙類(ドイツ語)にしました。ソナチネ・アルバムの表紙の次の頁が三段に分かれていて、英語、ドイツ語、フランス語で並んで解説が書いてありますが、文法の本を買ってきて勉強というほどではありませんが、中学時代から毎日眺めているうちに習わないのにだいたい三ヶ国語とも解るようになりました。頁の下の演奏法も三ヶ国語で書いてありますし、当時のオイレンブルクのスコアの解説も三ヶ国語でしたね。それから春秋社の「世界音楽全集」、全部買っていたわけではありませんが、歌曲に興味があってシューマンやシューベルトの歌曲の原詩を読みました。まだドイツ語なんか習ってない頃です。フランスものはマスネーとかサンサーンスなんかのってましたね。日本の詩にも島崎藤村なんかに中学の頃作曲してたんですが、シューマン、シューベルトのことが頭にあるんで、レクラム文庫でハイネの詩集を買ってきて、これもまたシューマンが作曲してないのを選んで(笑)、ピアノ伴奏つきの歌曲を作ったりして、何も習っていないから見よう見まねですがね。無茶と言えば無茶ですね。それから、リストの「ハンガリー・ラプソディ」なんかピアニストが弾くのを聴いて感激して楽譜を買ってきて弾けもしないのにたたきまくったですから、随分はた迷惑だったでしょうね(笑)。
下北沢から羽根木へ移った頃
助川 受験勉強の時はどうだったんですか。戸田 その話には当時の家の事情を説明する必要があります。その頃家の事情がとても具合わるくなったんです。父が親類の軽井沢の別荘で立てかけてあったガラス戸が倒れて額の骨をいため時々発作を起こすようになった。だいたい父は遺産で暮らしてた人でなんにも仕事してなかったんです。漱石の「心」なんか読むと当時はそういう人がいたようですね。父は遊ぶことを全然しない堅物でしたが、ただ鉄道でも三等車には乗らないとか、旅行しても日本式の旅館は大広間での宴会の三味線や歓声が不愉快だと言って洋風のホテルにしか泊まらないとか、その上事業に投資してたから、たかられたんでしょうね。それから一九二七年に金融恐慌がありました。二九年の世界恐慌の少し前です。母が私のために貯金していたお金が全部フイになっちゃった。私のための金だけでなくつぶれた銀行に置いてあった家の金が全部無くなったんじゃないかな。だから私は、この間からの住専以来の問題なんか気にしてますよ。下北沢の家も、井の頭線が通るから家が半分に削られて売ろうにも売れなくなりますよ、と言われて全部解体して羽根木へ持ってんたんですよ。これでまた随分お金がかかっちゃった。それでも売れなくて払いができなくて当時いやなことがいっぱいあったんです。母はお嬢さん育ちでしたけど、どこかからかお金の工面をしてきて今の新代田にアパートみたいなものを建てたんですね。一人だけ独身のサラリーマンには賄いをしてましたけど、ほかは部屋を貸すだけでなんとか収入を得ていました。私の学資は義理の叔父さんに就職したら返すからって出してもらった。小遣いは家庭教師をして稼いだ。上の弟は成績優秀な物理学者で奨学金が出て、あとは私が就職してからは生活費も学費も全部私が出してました。その当時作曲家といったら童謡か流行歌の作曲家しかいなかったですからね。それでどこか就職しなければならない。
ドイツで勉強できると思って外交官に
ドイツへ行ったら音楽の勉強できるかと思ったんですよ。それでのちに外交官を目指したんです。東大の試験についてはね、家がごたごたしてたんで東京高等学校の寮に半年くらい入ってたかな。その頃の東大法科の試験というのは試験勉強のしようがないような問題が一つ出るだけだった。長い外国語の文が出てそれを辞書なしで訳さなければならない。それも内容が分らなければ訳せないようなもの。ゲーテの人生論が出るか、新聞の社説や時局問題が出るか、トーマス・マンの随筆が出るかまったくわからない。だから試験勉強幾らしたって全然役に立たない。高等学校の頃からワグナアの「未来の芸術」なんてのを原語で読んでた方がずっとつよいわけですよ。日本語に訳す場合の日本語の論述の仕方なんかもあるし、それだけなんです。東大法科には法律学科と政治学科とがあって法律学科の方は法律を専門に勉強します、民事訴訟法とか刑法とか民法とかね。政治学科の方は憲法とか民法とか経済原論とかは必修でしたがずっと自由でした。東大オーケストラ部に入り、指定された定席はその年卒業で空席のできたトロンボーンだったが、在学中興味のない法科の講義は、出席はとらなかったので、ときたま出るだけで、オーケストラの練習室に日参し、ピッコロからコントラバスまであらゆる楽器を、吹いたり擦ったりして体感し、そのなかの幾つかはオーケストラの中で演奏した。また書いた曲を、コピーなどない時代、弦もプルトの数だけパートを自分で筆写し正規の練習後演奏してもらい、クレームを聞いた。のち在独時代、リムスキーやベルリオーズ=R.シュトラウスの管弦楽法の本を読んだが、私のオーケストレーションの基礎はこの実際の体験による。のち入野義郎君が、おそらく自分の場合も含めて、冗談に「東大音楽部卒」と言ったゆえんです。
そうそう、東大のオーケストラにいた時の同僚にのちの三木鶏郎がいたんです。彼は本当の法律をやっていて、親父が弁護士で、召集されて主計少尉かになったんですが、非常に優秀な主計少尉で「戦争が終わるまでお前を離さない」って言われたそうですよ。主計少尉が有能かどうかでその部隊の食物がまったく変っちゃんですね。千葉の方の連隊でしたがね。私はその頃は中野にいたんですが、疎開する時に軍のトラックに乗せて楽譜なんか運んでくれたんです。おかげで大部分戦禍を免れたんですが、惜しかったのはムソルグスキーの原典版の楽譜でしたね。このことは後で話ます。
外交官試験での科目のうち、当時は美濃部事件の直後だったから天皇については試験に出ないだろう、それから国際法では戦時国際法は出ないだろうというので、横田喜三郎さんの本ですが、あれはまた余り暗記することはないんですね。経済原論も理解していればいい。それから国際私法かな、あんまり膨大な分野で、国際民法から国際著作権法までみんなある、とても全部は出来ないからごく限られた分野だけ、たしえば日本の法律ではアメリリカ人、アメリカの法律では日本人の場合どうなるかとか、公海上の日本の船の上でイギリス人とアメリカ人が契約し、紛争が起きたら、アメリカの法律によるのか、イギリスの法律によるのか、日本の法律によるのか、幾つかの決まった問題があるんですよ。私は余り講義で出なかったが、あの頃は講義によく出た学生のノートの記録をガリ版で刷って綴じたものを大学の前の本屋で売ってましたよ、それを電車の中などで何回か読んでね (笑)。あともう一つは外国語。外国語の会話もあるんだけど、私の高校のドイツ語の会話の先生はウィーンの人で慶応の先生でね、日本でのスキーの開祖になった人ですが、日本語が出来すぎてシラーの「ウイルヘルム・テル」を日本語で講釈するんですよ、これじゃ日本人の先生と変らない(笑)。だから余り会話はやってないんだけど、ドイツ語は音楽の副産物で、教わる前から知っていたから。それから、これもどこでも習っていないけど、題を出して外国語で小論文を書けという試験がありました。これも私は音楽書を原語で読んでいたし、ドイツ語で詩まで作ってたから余り勉強しないで通ってしまったんです。後で聞いたら前代未聞に成績がよかったとのことで驚きましたハハハ。これが行政試験や司法試験だったら絶対通らなかった。
はじめてドイツへ赴任する
助川 それで昭和十三年に外務省にお入りになってドイツに行かれたんですね。
戸田 そう。行くときは船で行きました。シベリア鉄道で行くはずだったんですがソ連がいつまで待っても査証をくれないんで、船で行くことになって、同じようにイギリスへ行くのとフランスへ行くのと一緒に行きました。フランスへ行ったのは後で在仏大使になった人です。ナポリでちょっと上陸してカタコトのイタリア語で帽子を買ったり、それからマルセイユに着いて、そこから鉄道でパリへ行って、パリに遠縁の彫刻家がいたのでそこで一週間くらい居たかな。あの頃は船で一ヵ月くらいかけて着くわけだから、いまと違ってすぐに働かされることはなかったんですよ。新しい土地になれるまで自由にしてろ、それも勉強だということで一週間くらいしてからベルリンへ行きましたかね。その頃はまた、一年間どこでもいいから地方の大学へ行って何か聴講して来いと言われたんです。ただし日本人のいる所はだめ。私はまず鉄道でドイツをまわって見ました。途中下車しながらね。そしてミュンヘンが面白そうだったんですね。だけどミュンヘンは方言がひどすぎるし日本人も沢山いるからだめということになって、どこかラインラントが標準語に近いということでハイデルベルクへ大学へ行きました。当時流行だったゲオポリティク(地政学)なんかの講義も少し出たけれど、何を聴いてもいいというんで、ハーモニーの講義と、特別講義で「ヨーロッパ的リズムと非ヨーロッパ的リズム」というのがあったのでそれを聴いたんです。ハーモニー講義は教室の後側にパイプオルガンが仕込んであって教壇の脇に鍵盤がある。先生が五線の黒板に音符を書いてそれを弾いたり、これに和声をつけてみろ、なんて、そんなやり方でしたね。それでさっき言ったように一年間勉強するはずだったんですけど、その頃大使館がとても忙しい時で人手が足らなくて三ヵ月くらいで呼び返されちゃったんです。
電信課で暗号と取り組む
助川 当時のドイツ大使は大島さんですか?戸田 東郷大使です。東郷さんは二回軍人に追い出されたんです。大島さんが武官室に来て大使館乗っ取り計画をした。それからまたモスクワで今度は立川中将と更迭させられた。当時、大使館員は上から下まで反軍部でしたね。毎日々々軍の批判ばかりしてましたよ。 ベルリンに返って私たちがやらされたのは電信課でした。トンツーじゃなくて暗号室です。東京だけでなくほかの在外公館との連絡も全部暗号です。暗号にもいろんな段階があって一番複雑なのは同じ型が二度と出てこないんです。ところが外務省は自分でそれを開発するカネがないんで海軍が開発したのを使ってたんです。ところがアメリカは撃沈した日本の軍艦からそれを拾い出し、戦争末期にはこれを解読していた。だから当時モスクワと東京の連絡も全部読まれてたんです。それはともかくとして、東京との連絡は時差があるから、両方普通の勤務時間にやりとりしていたら半日か一日遅れてしまう。それで三日に一度は徹夜勤務というのがあって、その代りに昼間は寝ていてもいいというわけです。二つのタイプライターをつないで、一つの方で日本語をローマ字で打つともう一つの方で暗号化された字の配列で出るくる。こんど東京や別の在外公館から来る通信は二つを逆につないで受け取る。そんなことをベルリンでもモスクワでも一年半くらいやらされましたかね。まがりなりにもピアノを弾いてきたし、毎日キイを打っていたからすぐキイを見ないで打てるようになりましたね。だからいまワープロ打つ時もそれができるんですよ。
ベルリンに居た時はフルトヴェングラーとベルリン・フィルの演奏も聴きました。ベルリン・フィルはカラヤンになってまるで変りましたよ。オーケストラの人員も変ったんでしょうけど。今の「カラヤン・サーカス」とあだ名されたホールではなく昔の柱列が並んだ古いホールでした。それから、桐朋学園のオーケストラもそこで演奏したけど、芸術大学のホール、当時は音楽大学ですが、そこのホールもよく行きました。フルトヴェングラーの演奏会はベートーヴェンの交響曲一番とフルトヴェングラーの自作「ピアノとオーケストラのためのブルレスク」でした。ハイデルベルクに居た時も作曲していたんで、知り合いの指揮もしているドイツ人に見せたら「もっと早く知ってたらミュンヘンで放送してあげたのに」なんて言われました。ベルリンではオペラにも行き、ワグナアの「ヴァルキューレ」なども聴きましたけど半年しか居なかったですからね。
モスクワ大使館へ転任
助川 それからソ連に行かれたわけですか。戸田 そう、それからモスクワ大使館に転勤しました。モスクワに行ってからも一年くらいか電信課の仕事をやらされましたね。ドイツで音楽の先生を探そうとしたけどできなくて、ソ連に来てからも、当時はスターリン体制で外国人と話ができない。もちろんおおやけの場ではかまわないけど、町で会って話すると、こちらはかまわないけど向こうの人が警察にひっぱられる。だからロシア語は大使館の用か、うちにロシア人のおばあさんのお手伝いが来ていたのでその人と話すくらいですね。町では話せない。新聞は面白くない。だからロシア語のレッスンもとってたけど余り勉強しなかった。お手伝いも勝手に雇えるわけでなく、外国人接待局というお役所を通じて斡旋してもらうんです。お手伝いが来ない時もあるし、外国人が外で食べる所はホテル一つくらいしかなくて、いつも同じ物を食べるわけにいかないから朝昼晩とも同僚と自分で作って食べてました。買い出しが出来ないから官舎の上に大蔵省の家族がいて、買い出しを頼みました。洗濯も自分です。空気が乾燥してるからすぐ渇きますからね。作曲の先生につくなんてとうてい出来ない。官舎というのは帝政時代の金持ちの屋敷を改造した大使館邸の裏なんですがモスクワ音楽院のすぐ近くなんです。だから歩いてそこの音楽会にしょっちゅう行きましたよ。ボリショイ劇場や「モスクワ芸術座」にも行きました。 「芸術座」でチエホフの「三人姉妹」なんか見ました。「三人姉妹」のセリフなんかも本読んで幾らか暗記したり。モスクワ音楽院のホールには週二回くらい通ったかな。やがて「チャイコフスキー記念音楽堂」というのが出来ました。これは演出家のメイエルホリドの劇場になるはずだったんですが、メイエルホリドが粛清されちゃったんで急遽音楽堂に改装したものです。そこは少し離れていましたが、時々行きましたね。ドイツにいたときヒトラーは見かけなかったけどスターリンは見ました。ヒトラーもスターリンも同じように新しい芸術を抑圧してましたが、ショスタコーヴィッチや、ソ連に帰ってからのプロコフィエフの曲はよくやってる。オペラとしては上演されなかったけど「三つのオレンジへの恋」の行進曲なんかプロコフィエフ自身が指揮してやってました。
当時チャイコフスキーの生誕百年祭でほとんど全部の曲が演奏されるのを聴いてすっかりチャイコフスキーびたりになりました。
それから、リムスキー=コルサコフ。この人はずいぶん沢山オペラ書いてるんですね。外国ではほとんど上演されないのが沢山ある。これも見ましたが、民話オペラっていうのは私は余りおもしろくなかったな。それからムソルグスキーの曲はほとんどリムスキーの編曲でやられますが、ムソルグスキーの原典版というのを聴きました。そういうものの楽譜もずいぶん買いましたね。音楽書も買いました。ムソルグスキーの原典は、私がスコアを読んでもバスが重すぎるなって感じが確かにありますね。だから原典版がいいと言いながら、特にレコード作る時はリムスキー版のきらびやかな方になってしまう。ショスタコーヴィッチがリムスキー版のように派手すぎずムソルグスキーの精神を生かした版を作るっていってましたがどうなったか知りません。ストラヴィンスキーの三大バレエはソ連が帝政時代の著作権を引き継がなかったので外国では沢山上演されたけど一文も入らなかったんですね。それで、彼は新しくオーケストレーションを書きなおして古い方の版は上演禁止にしてしまった。 (以下次号に続く)
(『音楽の世界』1998年8/9月合併号掲載)
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戸田邦雄さんに聞く 〜外交官で作曲家であった人生きる(2)
前号に引き続き、作曲家であり外交官でもあった戸田邦雄さんのお話を聞く。独ソ戦のモスクワ大使館らかの一時帰国へて敗戦をサイゴンで迎え、抑留ののちの帰国までをお聞きする
ききて 編集長 助川 敏弥
さらにモスクワでの日々
ボリショイ劇場や「モスクワ芸術座」にも行きました。「芸術座」でチエホフの「三人姉妹」なんか見ました。「三人姉妹」のセリフなんかも本読んで幾らか暗記したり。モスクワ音楽院のホールには週二回くらい通ったかな。やがて「チャイコフスキー記念音楽堂」というのが出来ました。これは演出家のメイエルホリドの劇場になるはずだったんですが、メイエルホリドが粛清されちゃったんで急遽音楽堂に改装したものです。そこは少し離れていましたが、時々行きましたね。ドイツに居た時ヒトラーは見かけなかったけど、ソ連でスターリンは見ました。ヒトラーもスターリンも同じように新しい芸術を抑圧したましたが、ショスタコーヴィッチや、ソ連に帰ってからのプロコフィエフの曲はよくやってる。オペラとしては上演されなかったけど「三つのオレンジへの恋」の行進曲なんかプロコフィエフ自身が指揮してやってました。 当時チャイコフスキーの生誕百年祭でほとんど全部の曲が演奏されるのを聴いてすっかりチャイコフスキーびたりになりました。
それから、リムスキー=コルサコフ。この人はずいぶん沢山オペラを書いてるんですね。外国ではほとんど上演されないのが沢山ある。これも見ましたが、民話オペラっていうのは私は余りおもしろくなかったな。それからムソルグスキーの曲はほとんどリムスキーの編曲でやられますが、ムソルグスキーの原典版というのを聴きました。そういうものの楽譜もずいぶん買いましたね。音楽書も買いました。ムソルグスキーの原典は、私がスコアを読んでもバスが重すぎるなって感じが確かにありますね。だから原典版がいいと言いながら、特にレコード作る時は、リムスキー版のきらびやかな方になってしまう。ショスタコーヴィッチがリムスキー版のように派手すぎずムソルグスキーの精神を生かした版を作るっていってましたがどうなったか知りません。ストラヴィンスキーの三大バレエは、ソ連が帝政時代の著作権を引き継がなかったので外国では沢山上演されたけど一文も入らなかったんですね。それで彼は、新しくオーケストレーションを書きなおして古い方の版は上演禁止にしてしまった。
モロトフ外相の宴会で見たプロコフィエフ
助川 「ホバンシチーナ」もリムスキー版ですか。
戸田 「ホバンシチーナ」はむしろリムスキーが完成させたんでしょ。作曲者は終りまで書いてなかったんじゃないかな。あのオペラの原稿をあらゆる曲を同じ調で書いてあったのをリムスキーが半音ずつずらせたとのことです。
助川 モスクワの大宴会でプロコフィエフの姿を見たというようなことを以前お書きになってましたね。
戸田 革命記念日にモロトフ外相の立食パーテイに呼ばれたんです。その前にも音楽会場で若い者を大勢従えて議論しながら歩いているのを見かけました。モロトフの宴会では一人で、場違いの所に来たみたいにしょんぼり立ってましたね。
助川 ショスタコーヴィッチの音楽は当時どうでしたか。
戸田 ショスタコーヴィッチはピアノの前奏曲の自作自演を聴きました。ショスタコーヴィッチは室内楽はいいが、交響曲は私は本当はあんまり好きじゃない。プロコフィエフの方が好きです。交響曲は大げさで無理して「ソ連の英雄」的音楽に仕立てているようでね。第一番と、散々批判された第九番だけはいいけど。ショスタコーヴィッチのピアノはすごくうまいけど、それでもピアニストの演奏のように聞かせてやるという弾き方ではなかったですね。戦後パリでムラヴィンスキーがレニングラード・フィルを率いて演奏をしたことがありました。プロコフィエフの「チェロとオーケストラのための協奏的交響曲」をチェロがロストロボーヴィチ、奥さんのヴィシネフスカヤがショスタコーヴィッチの「ムツェンスクのマクベス夫人」のアリアを歌いましたが、休憩の時に立ち上がるとドアの所にショスタコーヴィッチが立ってるのを見ました。もうスターリン時代でなかったですからね。ただ私は、ショスタコーヴィッチもプロコフィエフも会って話したことはないです。
中近東への出張旅行
当時、日本軍とソ連軍がモンゴルと中国東北の国境で衝突したノモンハン事件がありまましてね、日本軍が散々敗けたんですね。そういう時代のさなかです。
その頃、中近東に公用で出張を命ぜられて、バクーまで汽車で行って、汽車の中で民族合唱を歌ってるのを聞きましたが、見事なものでしたね。西欧風の対位法や和声でなくて、一つの旋律が段々枝分かれしてまた一つに戻るというものですね。プロコフィエフの曲が時々そういう書き方をしていますね。ピアノ・ソナタや「シンデレラ」の中にそう所がありますよ。
助川 ヘテロフォニーですか。
戸田 そうですね、ただヘテロフォニーはいろんな種類がありますからね。日本のはずいぶん発達してるし中国のはまた少し違いますし。
その時はまずイランのテヘランに行き、それからバクダードへ行って、アンカラを通って、オデッサからソ連領に入ってまた汽車でモスクワに帰るという順です。当時イランでは最後の皇帝シャーが再婚したばかりで、当時のあの国は日本の明治維新後みたいな時期で洋風奨励、外出の時は洋服を着て女は帽子をかぶらなければならない。そのくせ国粋主義も同時にあって外国語の看板は一切禁止 (笑)。どれも同じような建物にヘンな文字が書いてある。私も少しは読めるようになりました。それから、テヘランからバクダードまでは車で行きました。時間の都合で深夜に国境と山を越えたんですね。バクダードに着いたら、そんな無茶をするもんでない、あそこはクルド人が居る所で、昼間は普通の農民だが夜になると山賊になる。身ぐるみ脱がされて拒否すると殺されるっていうんですね。クルド人は祖国がないんですよ。居住地はイラン、イラク、トルコにまたがっていて、どこも独立させたがらないんですよ。気の毒な民族ですね。山賊もしたくなるでしょう。バクダードからアンカラ、アンカラからイスタンブールまでは鉄道です。アンカラはどこかで見たような街だと思ったらドイツ人の技師が設計した街なんですね。この頃はすっかり変りましたがね、どこも近代都市になって。イスタンブールはとってもいい所です。いろんな文明が重なっている古い街ですからね。ソフィア寺院だってもとはギリシャ正教の寺院でしたからね。この頃はどうなってるか知らないけど狭い街だから余り改造できないんじゃないかな。
独ソ戦のなかシベリア鉄道で帰国
その後、独ソ戦が激しくなってシベリア鉄道で帰ることになりました。中国東北、当時の満州国の満州里まで来たんですよ。シベリア鉄道で普通一週間のところ二週間かかりました。食堂車があったのかも知れないが汽車の中は難民いっぱいで歩けないからパンやハムやチーズなんか沢山買い込んで客席で食べるようにしました。
助川 ドイツが攻め込んで来たからですね。戸田 そうですよ。もうモスクワが陥落しそうになったんですから。ですから鉄道も西へ向かうのは全部軍事列車で私たちの列車はどこかへ停まると一晩明けても同じ所。大使館としてはロシア語の専門スタッフは残す、そうでない者は古い者から帰して身軽になるという方針で、私ももう二年居ましたから二番目の列車で帰りました。一番目の列車には臨月の奥さんがいてどうなるかと思ったけど結局満州へ着くまでもったらしいです。満州里に着いてともかく風呂に入ったり、ハルピンで床屋に行ったり。私は大連から船で神戸に着きました。それから東京に帰ったんです。
諸井三郎先生のこと
その頃うちは中野にあったんですが、一九四一年から四四年まで東京に居ました。
戦争が始まる少し前、さいわいにして諸井三郎先生の家が私の中野のうちから歩いて十分くらいだったんです。昼間は役所へ行ってるから夕食すませて先生の所へ行ってレッスン受けたわけです。作品を見て頂いたら和声とオーケストレーションは教えなくてもいいだろう、発想がホモフォニックだから対位法をやりましょうということで、ルネッサンス式純粋対位法を二声から三重厳格フーガまでやりました。シュテファン・クレールの対位法とかリーマンの対位法もやりました。その頃は、小さな五線のノートを持って、バスや電車を待つ間も対位法をやっていた。またバッハやベートーヴェン・ソナタの分析も諸井先生からレッスンを受けました。四四年の音楽コンクールで私の「一楽章形式のピアノ協奏曲」が斉藤秀男さんの指揮、富永瑠里子さんのピアノで初演されたんですが、その一週間前にサイゴン赴任で飛行機に乗るように言われたんで自作の初演を聴けなかったんです。その前年ヴィクター賞に応募した交響序曲イ短調と交響幻想曲の「伝説」というのは二つともソ連で書いたんです。「交響序曲」はチャイコフスキー風、「伝説」はリムスキーコルサコフ風、おまけに「序曲」はドイツの五線紙、「伝説」はフランスの五線紙で書いてあったから、別の人の作品と思われて両方とも予選通過しちゃったんです。同一人と分って両方はまずいからというんで「伝説」は放送初演にまわされました。「伝説」は十年くらい前に芥川さんが新響で演奏してくれました。「ヴァイオリンとチェロとピアノのための三重奏曲」も長すぎるので第一楽章だけコンクールに出してこれも演奏されました。私は春にサイゴンに赴任するはずだったんですが飛行機を全部軍が管理していてコンクールの一週間前にあれに乗れということになったんです。もいフィリピン作戦が始まってましたからね。
サイゴンで敗戦、シアヌーク殿下に会う
助川 終戦の時にシアヌーク殿下にお会いになったとか聞きましたが。
戸田 それはね、連合軍が上陸して来たらフランス軍が寝返り打って挟み撃ちになるからというんで、四五年の三月九日に、日本軍がフランス軍の兵営を襲って武装解除して捕虜にしてしまったんです。そしてベトナム、ラオス、カンボジヤ三国を形式的に独立させると言ったんですね。それで、久保田総領事がカンボジヤ王国の最高顧問ということでシアヌークに会いにいったんです。久保田さんは軍が大っ嫌いだから、内面指導なんかしない、独立という以上自分の好きなようにさせろと。カンボジヤの政府もこれまでフランスの高等理事官というのの指示で政治してた。丁度、占領下の日本政府みたいなものですよ。だから、これからは全部自分たちで自由にできるというんでとても喜んだんですね。ところが、大臣たちも中国系の人とかポルトガルの血が混じった人とかいろいろいたんですね。カンボジヤという所はベトナムと違って中間階級がいないんです。政治のトップはフランス人、経済は華僑、小売商などはベトナム人、カンボジヤ人は王族と高級官僚のほか途中がなくてそのほかは下層労働者です。ベトナムとカンボジヤはひどく仲が悪くて昔のフランスとドイツみたいなんです。国政に不満なカンボジヤ人の兵隊がクーデターを起こして大臣を皆引っ張っちゃったんです。シアヌーク国王は人望があったんですね、叛徒と交渉してその人たちを全部釈放したんです。ところがその日に日本敗北の知らせがこちらには届いている。それでお別れにシアヌークさんに挨拶にいったら「何事も時の運、日本への感謝は尽きることがない」と言ってくれましたがね、その二三日後に、戦争中日本人に与えた勲章その他の栄誉はすべてこれを無効とするという法令を発布して、私も勲章なんか貰っていたけど全部フイになりました。列強の間で生きのびるための小国の苦悩を思い知らされました。
三年間の抑留生活
それで戦後三年抑留されましてね。あそこははじめフランスでなくてイギリスが進駐したんです。それからフランスへ引き渡す時に興味ある人間は皆シンガポールへ連れてったんです。シンガポールで半年くらい抑留されてたかな。それで何するかいうと情報収拾なんです。それなら我々外地にいた者より東京にいる者に聞いた方がいいって言ったんですがね、そうしたら日本本土はほとんどアメリカが押さえているからイギリスとしては自分の手が届く所で情報集めるほかないと言うんです。人によっては、当時はじめての総選挙があって当選した人の名簿を見せて、この人物について知ってることを話せと言われたり、当時、満鉄(満州鉄道、満州は現在の中国東北部、日本が植民地化して鉄道を走らせていた)の調査室が南方にずいぶんあったので、なぜ満鉄の人がこの辺にいるのか聞かれたりね。それからその後、フランスがまた我々を取り戻したんです。この時にフランスが興味なかった人は日本に帰された人もいます。しかし大使館員は連れてかれた。もう日本の船なんか来ませんしね。フランスもケチだから外国の船を雇ってまで日本人を送還しない。フランスの船は年に一回一隻か二隻くらい日本とインドシナを往復してる。なんでもホンゲイの無煙炭を持って行って日本の有煙炭を持って来ていたようですね。まず、戦犯裁判で無罪になった者とその証人が帰国の優先権がありました。私たちシンガポール組ははじめ間違えて監獄に入れられちゃって半年くらい。監獄には戦犯で死刑判決受けた人とか、民間人でまったく理由がわからない人とか、軍の通訳にかりだされて顔覚えられた人とかいましたが、当時、すでにフランス軍はベトミンの軍と市街戦してましたから、我々のことなんかかまっていられないんです。それから一般の抑留所に移されたんです。戦後三年くらいたって石炭船に乗って、それも甲板の上にゴザひいて、傾いて波が来るとザーッとかぶったり、途中で台風が来てまた引き返したり、ずいぶんかかって横須賀に着いたんですね。
引き上げトラックとともに十二音技法日本上陸
助川 その時レイボヴィッツの本を持ち帰られたんですね。
戸田 レイボヴィッツの本は、日本の占領中サイゴン放送にいた大島さんという人が、使役に出された日本兵とフランス軍の間の通訳やってたんですね。この人が音楽の本らしいから買って来てあげたって言うんです。それが「シェーンベルクとその楽派」だったんです。それを読んでこれまで知ってた音楽とまったく違うんですね。楽譜読むのが大変な苦労ですよ。見かけない音の固まりばかり、楽器もないけどともかく終りまで読んで、横須賀に着いて検疫で一晩泊められて、翌日、迎えに来た家族や当時妹の夫だった柴田南雄と新橋までトラックで立ち詰めで走って、トラックの上でかいつまんで話しましたが、それがいわゆる十二音音楽の日本上陸でした。引き上げ後は町屋の都営住宅にしばらく居ましたが、柴田南雄さんのお父さんが大久保に持ってた土地を貸してもらうことになって、苦労しておかねを作って、懐中時計なんかも売って、十坪しか家を作れない時代だったんで十坪の家を建てましたね。あとで建て増したりしましたが、戦後フランスへ行くまではそこに居ました。
無調音楽と十二音技法について
助川 戦後またガリオア関係でアメリカへ行かれたり、フルブライト委員会理事をされたりで、中近東へ行かれたりヨーロッパへ行かれたりして一九六四年に外務省を退官された。その間とその後、桐朋学園の教授や洗足学園大学の学部長をつとめられたわけですが、ここで先生にぜひうかがいたいのは、一時期を風靡した無調音楽とその思想をどうお考えになられますか。はじめて日本へ十二音技法を伝えられた歴史的お立場ということもあるので、ぜひその辺のお考えをうかがいたいのですが。
戸田 無調音楽についてはですね。「無調」という言葉をシェーンベルクも嫌っていたんだけど、私は無調ではなく、正しくは、パンエンハルモニークといいたいんです。「汎異名同音」という意味ですね。レ♯とホ♭も、ヘ♯とト♭も区別つかないという状況の中で一オクターヴ内に十二の音があると考えるわけでしょう。しかし実際にはその何倍もの音があるわけですよ。増二度と短三度は違うんし、増六度と短七度も違いますよ。それから中世以来同じトリトヌス(三全音)と言われてきたけど、私はどうも増四度と減五度は違うように思いますね。減五度の方が狭くてやわらかい。平均律では同じ音が鳴るわけだけど聞く側が前後関係でなおして聞いているのでしょう。別宮さんが十九平均律なんて言ってたけど実際そんなこと出来るわけない。私はむしろ半音以外に三分音を提唱したい。実際三分音の弦の曲を書いて演奏しましたが、ヴァイオリンの植木三郎がこれは弦奏者が実際に使ってるものだ、と言っていました。だから、無調という言葉とても誤解を生む言葉なんで、ロマン派の最後期になってパンエンハルモニークの状態になったとき、それにどうやって構成を作るかという段になって、ゲルマン民族は構成感が強いから、構成を与える方法として考えられたのが十二音楽またはセリー技法の根本だったろうと思うんですね。日本で考えているように、無調にするためにセリーを使うというのは逆で、望遠鏡を反対側からのぞいているようなものですよ。ただね。十二の音全部使ったセリー、音列でなく、幾つかの音による音列を使っている人はかなり居ますよ。武満君だってかなりそういう技術は使ってる。
私はね、人が余り言わないことだけど十二音の技法は一つだけ長所があると思う。この頃みたいに全く旋律の無い抽象的音響体の音楽になってしまうと、どうやって旋律性を回復するかということが課題になる。その場合、アルバン・ベルクの音列みたいに一部分ディアトニクだったり別のなんかの旋法だったりして、セリーを用いることによって旋律性を回復できるんじゃないか。私自身かなりそういうことをやってきました。タテヨコの関係を全部有機性持たせてしかも旋律を浮かび上がらせることができる。オペラの「あけみ」の一部、ソプラノと器楽の「メサージュ」、「万葉集によせる七つの歌」も全部十二音です。ただし、旋律的に作られています。
助川 それでは長い間どうも有難うございました。 (完)
(『音楽の世界』1998年10月合併号掲載)