■ 対談 作曲家・松村禎三 ■

交響曲二番に至る歩み

-- 自分の中の真実をもとめて -
                                     聞き手 編集長  助川 敏弥                               


 はるかな日、目白での出会い

助川 僕らの出会いは昭和三〇年頃だったね。目白の喫茶店「エコー」という店だった。当時としてはめずらしい、やや大型の電子オルガンを置いた店で、風変りな人がオルガンの試しびきみたいなことをしていた。それが松村さんだった。
松村 そうそう、その前の年に助川さんが日本音楽コンクール作曲管弦楽部門で特賞になって、その次の年に僕が同じ部門で一位に入った。そんな時期だったからすぐ作曲の話になって友達になった。
助川 あの時は、たしか芙二三枝子さんの舞踊の曲をあの店で録音するのでオルガンの調子を見に来てたんじゃない?
松村 そう。あそこに打楽器を持ち込んでオルガンと打楽器の曲を録音した。
助川 といっても昼間人が居る時には出来ないからウシミツドキにやったんだろう。
松村 ウシミツドキだったよ。
助川 よく近所から文句が出なかったな。あの頃、僕は目白の駅のすぐ近くに下宿していたんで、学生の友達がよく遊びに来て僕の部屋が集会所みたいになっていた。岩城宏之とか山本直純とか、少しあとで広瀬量平とか、それから、斉藤秀雄先生の指揮教室が目白にあったから小沢征爾君なんかもよくあの辺に出没していた。僕が下宿していたのは作曲家の渡辺浦人さん所有のスタジオだった。当時、ピアノを置かせてくれる下宿がなくてね、直純君の紹介で渡辺先生のスタジオに入れてもらった。ピアノを置いていいけどその代りバレェやピアノのお稽古にピアノを使わせて貰うという条件だった。

 ひさしぶりに聴いた第一交響曲

助川 先日サントリー・ホールで交響曲の二番というのを聴かせてもらったが、一緒に一番の方の交響曲も久しぶりに聴かせてもらった。あれはずいぶん昔の曲で、友人としても思い出深い曲だが、久しぶりに聴くと音楽というものは大分違って聞えるものだな。昔、聴いた時みたいに巨大な音楽に聞えなかったよ。小振りに聞えた。しかし、一日二日たってみるとやはり大変に重量感がある音楽を聴いたという実感が湧いてくるから不思議なものだ。
松村 聴いた大分後でね。
助川 軽く聞こえたのは演奏がうまくなってるせいもあるかもしれない。昔は七転八倒してひいてる感があったからね。そうなるとその抵抗感が作用して音楽まで重々しくなってくる(笑)。いまはやすやすだ。現代音楽に慣れてるからね。現代音楽の語り方に慣れてるから、これはあれですね、ということで弾いてしまうからね。音楽から受ける感動のあり方にもいろいろあって、聴いた直後に強いものを受ける場合と、聴いた直後はさほどでもないが、時間がたつにつれて心の中に次第に重いものが残っていくという場合がある。やはりこの曲は禎さんが永い年月盛り込んだ意識の量が重みとなって出るんだろうね。あれはずいぶん永い間呻吟してたものね。通算なん年かかったの?
松村 五、六年かな。
助川 日フィルの委嘱が来なかったら永久に出来なかったんじゃないか(笑)。
 あなたは昔自分でも言ってたけど「初期爆発型」の作曲家だということだね。始めにデカイ曲をドカンと作るがその後がなかなか持続しにくいということか。ストラヴインスキーがその一人で、これも禎さん自分で言ってたことだろ。オペラも聴いたけど、あれはあれでまた後で話するけど、この間の第二交響曲というのは僕にとって、とっても気になる曲だった。普通の人は解らないかも知れないが同時代に生きて同じようなことを考えて作曲してた者にとって実に切実なものをあの中に見出だしたんだな。
松村 「初期爆発型」というのはストラヴィンスキーについて僕が言ってたことだけど、彼の生涯の仕事ぶりを見ていて、ああいうふうになりたくないと思い続けたんだよ。僕は数はたいしちことがないけれど、その後「管弦楽のための前奏曲」、二つの「ピアノ協奏曲」「チェロ協奏曲」、オペラ、交響曲二番等、僕なりに内容がしぼまないように努力してきたつもりだけど。交響曲二番を君がどう受けとめたか僕もたいへん興味ある。
助川 おかしなことを言うようだけど、失敗作か成功作かなんてことはどうでもいいような気がする。それでプログラムを見るとこういうことが書いてある。
 「バッハやモーツァルトに見るように至高の音楽というものは常にあるしなやかさを持っているのではないかと思えて来た」と。
 この辺のことをもう少し詳しく説明してほしい。
松村 様式の無い音楽というのはありえないと思うし、それで新しい様式がどんどん探求されて、昔の約束された様式で語るということが許されないというのか、それがリアリティを持ち得ない時代に生きているような気がする。
助川 それじゃ、ここに書いてあることと矛盾するじゃないか。
松村 いや、だから、新しい様式というのはどういうものがあり得るのか問い続けるわけだけど、こういう様式だ、と硬直して決めてしまってそうでないものは排除すれば、それでも音楽らしいものは出来る。しかし音楽というものはそんな生易しいものではない。もっと不思議なところで音楽になったりならなかったりする。やる以上はモーツァルトやバッハの足元に少しでも近付くようなものを作りたい。そのモーツァルトやバッハを見ると何か「しなやか」なんだな、硬直してない。助川 「しなやかさ」ということはそういう意味か。
松村 楽想が自由に息づいてるんだな。
助川 体堅くして絶叫してるようなことはない。
松村 モーツァルトなんか決まり切った和声と様式で出来ているんだか実に自由で変化にとんでる。
助川 僕も実はある年令の頃から同じような考えに捉われるようになった。僕の言い方からすれば、大声を発して叫ぶよりも物静かに一語一語静かに相手の胸に落ちるように語りかける方が説得性があるように思えてきた。四十代の終り頃からかな。すごい不協和音を鳴らしたり、鋭いリズムで刺激するより、モーツァルトやバッハはもっと淡々と語りかけているように思えるんだな。
松村 その方が豊かなんだよ。
助川 そのためには「言葉」が必要だ。われわれがやってきた現代音楽というのは「言葉」を失なってわめいているようなところがある。
松村 いま君が「言葉」という言い方で意味したものがどういうものかということだ。
助川 僕は、少なくともその一つは「音階」ではないかと思う。
松村 音階?!なるほど、スケールか。
助川 モーツァルトもバッハも音階によって語るから聴いている方はなるほどとうなずけるんじゃないか。あれがクラスターだったらダメだよ。
松村 クラスターというのは千変万化みたいに見えるけど却って同じ表情で一本調子にしか感じられない。
助川 そうなんだ。だから、言語表現が不自由な人が全身をゆすりながら何か言おうとしているみたいになる。だから音階を廃止して調性を廃止して音楽はそのため失語症になったんじゃないか。
松村 材料や手法は随分増えて豊富になったはずなんだが、実は全部スリ鉢に入れてスリコギで付き混ぜたようなもので一種類になっちゃった。ミックスジュースみたいになっちゃった(笑)。
助川 モトの成分が分らなくなったら何を食べているのかも分らない(笑)。

 西洋やヨーロッパに対して変化したか

助川 それとこれもぜひ聞きたいことがある。若い時から禎さんが言っていたことだけど、ヨーロッパとか西洋とかいうものに対して自分は別なものを提示していくんだということ。それが近頃少し変ってきたということ、そういうことをやはりこのプログラムに書いてるね。その辺のことを説明してほしい。
松村 僕はね、文化というものは個人の命と同じで命があって若い時と老年がある。ある期間生きると寿命が終るんだと思う。昔から幾つもの文化が興っては滅び興っては滅びしてきた。中国でもインドでもそうだった。いろんな芸術が興りながらある時創造のエネルギーが無くなってしまう。若々しい勃興の時期から、成熟と爛熟の時期、そして衰弱の時期をたどる。ヨーロッパの音楽も、バッハ、ベートーヴェンから後期ロマン派まで、あれだけ立派な音楽を生み出しながらも、その大きい山脈は老衰の時代に入っていく、その曲り角にシェーンベルクみたいな人がいる。先祖があれだけ立派なことをしてくれると孫やヒ孫はすることがなくなってグレるしかなくなる。だから、音楽そのものの本質まで自己否定するような目新しい色々な手法が次々に作られ、ファッションみたいに通り過ぎていく。厳しい谷間の時期がしばらく続いたように思う。
助川 それはそうだが、それじゃ若い時言ってたことと同じじゃないか。
松村 うん、だから、老いたヨーロッパに対して日本は若く豊かな感性の土壌があるし、われわれこそが彼等に代る新しいものを創ることが出来るんじゃないか、という野望みたいなものを持っていた。
助川 だから、それじゃ昔と同じだよ。
松村 ところがだ、自分の創作歴から言うと「管弦楽のための前奏曲」を書きおえた後で、これと同じことをこのまま続けていったら、自分で自分の手法のアカデミズムみたいなものが出来ちゃって、自分の中で老化現象が起こって袋小路へ入ってしまうような気がしてきたんだ。
助川 「前奏曲」を書いた時そういう意識が出てきたの?それは一種の危機感だな。
松村 危機感だ。「前奏曲」を書いた後から体の中にあった音がウニャウニャ動く楽想がまるでスポッと憑きが落ちたみたいに自分の中になくなってしまった。それでちぢれ毛が真っすぐになったみたいに音がスーッとした楽想が浮かんで来るようになった。
助川 そのゴニャゴニャというのはしかし日本的なものとは言えないじゃないか。
松村 そうだ。非西洋的なもので、日本的なものはむしろ僕は余り好きじゃなかった。岡本太郎も「日本の伝統」という本の中で、日本の文化はいじけていて嫌いだと言っていたが、その本に刺激されて「阿知女(アチメ)」を書いた。あれは縄文のイメージだ。
助川 「前奏曲」の大分前のことだね。
松村 「阿知女」は一九五七年だ。一九六八年の「前奏曲」の五年あと一九七三年に「ピアノ協奏曲」の一番を発表したわけだが、それは、C#F#G#というほんとに西洋調性音楽の基本のような音がを裸で鳴り続けるという、自分としては大変な冒険をした作品だった。
助川 なるほど、「前奏曲」と「ピアノ協奏曲」の間におおきな断層があるということだな。それ以前の、色々なものがゴニャゴニャ出てくるということが無くなった。
松村 無くなった!それまでは、アジア的な有機的混在みたいなものを尊しとして、一方で「これはヨーロッパだ、これもヨーロッパだ→だから排除する」というやり方をして来た。しかし、そうして排除して来たもの、捨てて来たものの中に、実は、音楽として普遍的な大事なものも混じっていたのではないか、そんなことを考えるようになった。それを今から拾い直して自分の世界を豊かに造りなおさなければならない。そう考えて取り組んだのが「ピアノ協奏曲」の一番だ。冒頭のヴァイオリン線が、HAG#と下がって来るんだから、ほとんど機能和声の気配すら聞こえる音の動きだろ。
助川 うん、音階だな。しかし、あそこで、さっき言った音階の静かな説得力は出ているよ。あそこに変貌があったわけか。
松村 「ピアノ協奏曲」の二番では、ファ・シ・ファ・FBFFBFを繰り返す。
助川 ヨーロッパではない独自なものを創るという理想は変らないが、ヨーロッパの中にも捨ててはならないものがあるということだな。
松村 ヨーロッパの中にも普遍的なものが含まれているということだ。
助川 それはヨーロッパ固有のものでなく、いい芸術ならどこにでもあるもの、ということか。西洋の方が先輩だったから先に存在していたということか。
松村 まさにそういうことだ。例えば、調性とは中心音のあることが、と広義に僕はとらえているが、音楽学者の小泉文夫さんに「民族音楽で調性のない音楽はあるか」って聞いたら「一つだけある。台湾かどこかの山奥の音楽で、長二度の音二つだけで出来ている」って言うんだ。
助川 しかし、それは調性じゃないか。
松村 うん、でもどっちが中心音が分らない(笑)。
助川 それはどっちでもいいだろう。
松村 話は少し変るが、最近、作曲家たちの流れの一つとして、アジアの民俗音楽に興味を持ち出して、ガメランだインドだとスパイスみたいにその素材を使う傾向が出てきた。助川 あれば物欲し気だな。自分の遺産を食いつぶして、もの珍しいものに手を出している感じだね。
松村 民族音楽の基盤にはその風土と生活の歴史があって、その中で育ってきたものだから、その精神と感性を受けとめることが肝心なんだ。外面的な素材をスパイス風に取り入れることから真に新しい音楽が出てくるとは思えない。

 第二交響曲を書く時

助川 そうすると、今の段階では第二交響曲というのを書いて、依然としてヨーロッパにはない独自なものを創るという理想は変らないわけだから、昔とはやり方は違ってもその努力はなんらかの形で続いていなければならないわけだろ。その辺をどう考えてるの?
松村 第二交響曲の前にね、「沈黙」というオペラを永い時間かけて作ったんだ。オペラでは今までの語法を更に大きく拡げて仕事をした。しかしその後、純粋器楽曲である交響曲の二番を書くに当たって、自分の全部の語法をもう一度白紙に戻さなくてはならないと思った。「こうあらねばならぬ」「こうあってはならぬ」ということが自分の中になんにも無くなってしまった。トシとったせいかもしれないが、こうなったら自分のやりたいことをやるほかないと思うようになった。日本の文化を創るとか、独自のものを創るとか、そういう何かを背負ったことではなくて、自分にはこれしか出来ないんだいうものを書けばよいのだ、結果的に独自のものになるに違いない、と思うようになって来た。助川 「二番」はどのくらい期間かけたの?
松村 二年くらいだね。
助川 ずいぶん永いね。最初に取り組む時にそういう心境になってたの?
松村 いやそうじゃない。七転八倒の内に段々出来てきた心境だ。
 それで書こうとして、どうしても頭に浮かんできて離れないのが、出だしの金管とピアノの楽想だ。それかまた危険極まる楽想で、金管がラレシミ、まったくヨーロッパの機能和声の構成音そのままで出てくる。ラソ#ファ#レ、ラソラソラソ、その後でピアノがなんとドミソの和音でポーンと鳴って、レドドシと来る。
助川 聴いた人でだいぶ戸惑った人がいたみたいだよ、専門家で。
松村 その後でソレファラ♭だ、機能和声そのものだよ。トニカ、ドミナンテだもの(笑)。こんな楽想は「前奏曲」を書いていた頃だったら頭に浮かんだ途端に捨ててたものだ。ところがね、それしか心から離れないんだよ。助川 ああ、やっぱり出て来てしまったんですね、ホントのものが(大笑)。
 ただ、それは自分も身に覚えがあるけど、歳とってプリンシプルを堅持することに疲れたのか、余計なものが降り落とされて本当のものが出て来たのか、どちらかだが、後の方だと思いたいね、自分のことも含めて。
松村 自分としては今までの長い道筋のさすらいがあったから、ここに到達したんだろうという気がしてるよ。もちろんくたびれてもいるけどね(笑)。一番の交響曲を書いた時のような吹き出るようなフォルテシモを、ここで書いたらどうかと思っても全くそれはリアリティを持たないんだよ。
助川 それは自分に正直なんだろ。
松村 正直でありたいと思っている。
助川 むかし、別宮貞雄さんが通称前衛派の人たちと論争して「芸術に旗印を持ち込むことはよくない」って盛んに言ってた。別宮さん自身もまだ若かったから、どれだけの意味で言ってたのかは分からないけど、いまの話と通ずる所があるね。旗印を持ち込むと芸術がヘンになっちゃうような気がする。
松村 今になってそれは大変重要なことに思える。
助川 それは当たり前のことだよ。
松村 交響曲二番は、素材の面だけでものを判断する人から見れば松村は頭がおかしくなったんじゃないかと思えるかもしれない。けれど、のそ奥にある実体を感じとってほしい。
助川 そうすると、僕も同じ時代に生きて仕事をしてきて、同じような体験を経て、この年令で到達した認識かもしれないな。でも、それでも今もなおヨーロッパに対して日本のものをということは考えているわけだね?
松村 自分に正直にそのまま書いてもヨーロッパそのままにはならないだろうという自負が持っている。これから機能和声で書きましょうと決めたわけでも勿論ない。
助川 それは当たり前だ。
松村 自分に正直に書いていくだけだからね。それがいいかわるいか、それは聴く側の判断にまかせるということさ。
助川 さっきの話になるけど、旗印もまた若さの現われなんだろうけどね。
松村 そう、だからこういう心境も老人の特権なんだろうな。
助川 僕はイタリアに行って感心したんだけど、建築にイスラム的なものが沢山混じってるように思うんだな。中世はイスラム、アラビアの方が進んでたんだからね。戸口幸策さんが言ってたけど、西洋近代文化にはイスラムの要素が沢山入ってると言うんだね。西洋人はそれを取り込んで自分のものにしたと言うんだ。いろんな文化はどうしても混じるよ。
 あなたは若い時、第一交響曲を書いた頃、「自分に一番近いものにストラヴィンスキーの『春の祭典』があるが、舞踊風の肉体的なリズムとディアトニックな旋律はもはや私のものではない」って言ってた。それと今の心境とはどういうことになるのかとも思うけど。
松村 そうだなあ。違うだろうな。
助川 「アプサラスの庭」の頃はどうだったの。あれは順番からいって・・・
松村 ピアノ協奏曲の一番のすぐ後だよ。
助川 「前奏曲」までのゴニョゴニョが終って後だね。「アプサラスの庭」は僕が紹介してチェコのブルノでやって評判よかったよ。ヨーロッパでも通称「前衛」ばかりやってるわけじゃない。現代音楽がこうでなければだめだ、みたいな観念に縛られるのは日本の後進性の表われでもあったんだろうな。
松村 日本だけかな。
助川 ヨーロッパにもそれはあるけど、彼等にとってはクラシックは血がつながった親だらからね。

 オペラ「沈黙」について

助川 ところで、オペラの「沈黙」だけど、改作したんでしょう。
松村 うん、でも割にこまかい所をね。
助川 その改作の方は聴いてないけどね。初演の時気になったのは馬鹿に舞台が暗いことだよ。なんであんな真っ暗闇の中でうごめいてるのかね。
松村 再演の時はすっかり明るくなったよ。とにかく舞台については見事になった。照明は吉井澄雄さんで、彼は浅利慶太さんの演出で、僕もずっと一緒に芝居の仕事をしてきた友人で、照明家としては世界的な大家だけれど、えてして暗くする傾向はある、しかし、今度の再演ではプランを練りなおして素晴らしい照明にしてくれた。
助川 そういう照明も演出家の指示で決まるんじゃないの?
松村 その辺のスタッフたちの協力関係は僕は立ち合ってないから知らない。
助川 任せたわけ?
松村 ある程度、言葉の上で打ち合せはしたが、実際に見られるのは舞台稽古の時だけだからね。
助川 「ここは変えてくれ」ってなことは言いにくいのかね。
松村 だってもう時間もないからね。全部装置変えて照明も変えてってことになると大事になっちゃうからね。ましてオーケストラや歌い手も居るわけだから、彼等を待たせてそういうことはとても出来ない。
助川 スタッフたちと机を囲んで打ち合せして、作曲家の方針を伝えることはしなかったの。
松村 全スタッフが揃ってということはなかった。個々には話をしたけれど、後の舞台化は演出に任せるものだと思ったからね。
助川 「初演が暗かったから明るくしてくれ」ということは言ったの?
松村 再演に向けては何回も丁寧に打ち合せをした。初演の時の照明に戻してみて「ああ、暗かったねェ」なんて言ってたよ。
助川 舞台を暗くするのは最近ヨーロッパでもよくやるけど、余りいい趣味じゃないな。松村 こんどまた来年の三月に新国立劇場でやるんだよ。今度は演出も照明もまったく違う人だ。若い人だ。
助川 また暗くされちゃうかも知れないよ (笑)。テレビ放送の時はまだしもカメラで分るように映してくれたから幾らかましだったけど、本番は本当に真っ暗だったからな。
 音楽についてだけど、もっと自然な歌的なものがあってほしいように感じたけどね。内面的になり過ぎて、大体、宗教論争的な話はディベイトになっちゃって歌の世界から離れるんじゃないかな。もっと単純な人間の方がオペラに向くと思うんだけどね。
松村 僕はあくまでオペラを作ろうと思っていたが、在来のオペラとは違うものにになるだろうと思っていた。そういう意味では、君の期待に添えなかったかもしれないね。遠藤周作さんの同名の小説を原作にして台本も自分で書いた。
 主人公の司祭ロドリゴは、はじめ布教のために、江戸時代キリシタン禁制中の日本の渡って来て信者と出会い、昂揚した「山の上のアリア」を歌うんだけど、その後、信徒がつぎつぎ殺され、自分も捕らえられる。フェレイラという棄教した日本人に帰化しているかつての師が訪れ、ロドリゴに転ぶようにすすめる。
助川 転向させようとするわけだ。
松村 そう。二人だけで一夜を過ごすわけだ。その後、踏絵を踏む前に、それを手にして神と向かい合うロドリゴのアリア。最後に踏絵を踏んだあと、一人でひれ伏した時に神の気配が残って幕が下りるというのがこのオペラのあら筋です。
助川 話に演劇性が強いんだよ。
松村 在来のオペラから較べるとそうだろうと思う。しかしそのことは優点でもなければ劣点じもないと思う。そういう今までにない新しいオペラが出来たということだ。それがもし圧倒的に感動的なものになるならね。それでいいのだと思う。
助川 今度は手直ししないの?
松村 少しした。
助川 もう少し悲しい音楽とか嬉しい音楽とかが欲しいんだけどね。「ヴォツェック」だってマリーが一人で蝋燭の灯りの下で聖書を読む所なんか、この人にも善なる心はあったんだなと思わせるあまい音楽があるからね。松村 そうかなあ。「沈黙」には女性の主役のオハルというソプラノがいて、婚約した恋人と共に祝福されている倖せな重唱、恋人が海の中の磔で殺される時、狂乱するアリアと、自らが死んでいくアリアがあるんだけどね。まあ今度また見てよ。初演の時は何もかも暗すぎたからね。
助川 暗いと見る方が疲れるからね。何やってんだろうと考えるから。テレビのは初演版かね?
松村 うん、初演の舞台をNHKが編集したものだ。再演の時は日生劇場が記録用に撮ったものだけだったんだけれど器材が古くてよく映らなかった。残念ながらちゃんとした記録は残っていないのだ。
助川 何年くらいかかったの?
松村 全部で十三年か。

 チェロ協奏曲と芸大紛争

助川 チェロ協奏曲は僕は聴いてないんだ。あれは何年くらいの曲?
松村 一九八〇年代の始めだね。日フィル・シリーズの記念の委嘱だ。これにかかった時僕は芸大の教官だったんだけど、例のヴァイオリンの芸大事件が起こった。それと芸高移転問題と旧奏楽堂保存問題と三つの事件が重なって起きた。僕は教授で学制審議会の主査だった。学長は国会で質問されて「東京芸大は芸術教育の本質から根本的に荒い直して不死鳥のようによみがえります」って答弁して、そのために何十回会議したかわからない。主査を小泉文夫さんに替わってもらったら小泉さんが亡くなってまた僕に戻って来た。世界中の著名な音楽学校の資料を参考のため取り寄せた。山のようになるほどだ。パリ音楽院ももちろんだ。あちらは、学外で音楽活動を何年もしない人はクビになってしまう。日本では、学外で活動するのはけしからんと言われる。国家公務員なのに外でかせいでるのはけしからんと言うわけだ。逆の発想だ。そんなことも含めて学内に泊込みで議論した。そもそも外で活動してた人が教官になるんだけど、なってしまうと段々オリに入れられたみたいに活動がにぶってきてやらなくなってしまう。学校の管理の仕事ががんじがらめになるからね。僕は中間答申案をまとめて出したんだけど、それによっては何一つ改革されなかった。そういったことのために日フィル委嘱の仕事もずっと延期してしまった。

 これからの音楽と人間

松村 これから音楽はどうなるのかね。僕は僕で自分に誠実に歩いてゆくほかないけど、別な人や若い人の音楽がどうあるべきかということがなかなか言えないな。
助川 どうなるにせよ。喜怒哀楽、人の喜びや悲しみを表わさない音楽なんて存在理由がないよ。
松村 すくなくとも無くならない。
助川 そこに「現代」でないとダメがなんていう観念が入ってくると、わざわざ不協和音を鳴らしたりする馬鹿なことをするようになる。
松村 芸大やめる頃だけど、作曲科の男子学生が、自分はどうしても現代音楽が好きになれないというんだね。学生たちのフォーラムのような場でそう言った。そうしたらほかの学生全部から寄ってたかって袋叩きにあってたよ。ある上級生の女子学生は「私なんか無理してキタナイ音書いてんのよ!」なんて、その学生を諭してるんだ(笑)。これはちょっこわいことだったな。芸大の学生がそういう意識を持つのは問題と思ったなあ。現代音楽が嫌いだといという学生は、少なくともいい成績はとれない。脱落者のようになって皆から仲間外れにされて、コンクールに入るなんてことは勿論考えられない。
助川 よくないね、そういう状態は。僕が知ってる芸大生にも同じことを言ってたのがいたよ。
松村 何人もいるよ。僕は自分なりに真面目に考えて来たことを学生たちに話して来たつもりなんだが、優秀だった学生たちの誰もが祝福されてどんどん作曲活動をしていくように見えないんだな。コンクールなんかに入るのは何人もいるけど、華々しく活動している人はごく一部分で、孤独に苦しんでいる人たちは多勢いる。考え込んでいる人も沢山いる。
助川 いまの世俗の動きがそうだからね。しかし、自分に誠実に仕事してない人はいつか限界が来るから、その内に作曲をやめちゃうようなことになるんじゃないか。
松村 うん。でも、誠実な方が作曲やめちゃったりしてね(笑)。マスコミの情報量が余りに多すぎて、しかも信用できるとは限らない。だから、本当のいいものは口コミの情報にによって伝わる。ある程度は名がしられないと再演されないし、再演されないと評価のされようもないという悪い循環になってる。だから若い人たちもなんとかして知られようと懸命になるんだな。

 評価と価値観の混迷

助川 武満徹賞とかいうのがあって、世界的作曲家一人に審査してもらう趣向だそうだけど、この前、リゲティが応募作全部返して来たそうだね。
松村 僕は、その時のリゲティの手紙というのを読んだよ。リゲティ自身が「わからない」って言うんだよ。
助川 何がわからない?
松村 「今どういう音楽があり得るのかということが判らない」って言うんだ。
助川 ずいぶん正直な人だな。
松村 どういう曲が可能で、どういう曲が将来祝福されるものか、それが判らない、と言うんだ。
助川 それじゃ人を裁くことは出来ないな。応募作が下らないと言ったんじゃないの?
松村 違う。僕の読み違いと記憶違いがなければそうだったね。僕も余り違わない状態だ。若い人の曲を評する時に、これはよくない、とか、こっちの方がいい、とか、断定することが出来ない。
助川 それでも音楽として良い悪いは路線と行き方は違っても判るんじゃない。
松村 文句無しにいいものならそうだけど、どれもドングリのような出来の場合は難しい。しかも技術的にはいまの若い人は達者で巧みだ。その中で判断を下すのは何とも難しい、うまい、ということと、いい音楽ということは違うからね。
助川 心に感じるものがなくても音楽の形したものは出来るからね。何やら不気味なものだよ。
松村 形だけのもの作る方が仕上がりがいいのものが出来るからね(笑)。
助川 心とのコダワリがないからな(笑)

  いまのこの地点に立って見えるもの

助川 最近は昔と違って作曲の世界もずいぶん変って来た。無調でなきゃだめだとか、ああじゃなきゃ現代じゃないとか、進歩主義的な言い分が影をひそめたね。
松村 進歩主義は本当によくなかったね。
助川 古いということはダメだということだからね。どれだけこういう考え方が害毒を流したか分らない。
松村 新しいものは次には古くなるんだから新聞紙みたいなものだ。世界が荒廃する。
助川 少し前、ポーランドの小さな現代音楽の会があって、どれもこれも無調の「現音調」で、やっと終ったと思ったらまた始まる式の曲ばかり、その中で僕のピアノ曲「こもりうた」をやった。これは東北民謡の変奏なんだけど異彩を放ったよ。客は喜んだ。だって脈絡が分るから。たまに脈絡が分るものに出会ったから救われたんだろうな。しかしまた、この「反前衛」が一つのファッションになっちゃうと仕様がない。
松村 さっきからわかったようなことを言ってきたと思うが、過去の歴史と照らし合わせて、二十世紀の半ばから現在に至るまで、これまでの人間の歴史になかったようなことが起こっているように思えるんだな。特に一九八〇年以降だな。加速がついて世界は一つみたいになって交流も激しくなって、生活様式も共通的になって、しかも終末的な感覚がどうしても僕にはついて回って抜けないんだな。この文化が滅びてそれに代る新しい文化が興ればそれでいいんだけど、そう楽天的になれないんだね。
 一番の交響曲を書いた時は、自分こそが新しい文化を興そうという野心を持っていた。野心に燃えてたんだな。ピアノ協奏曲の一番、二番の時もまだそうだった。それが一九八〇年代以降、特に最近は何かひどく絶望的な感じがする。これからどうなるのだろう。科学万能で人間も文化もそれに降り回されているような世の中の趨勢だ。科学や技術が暴走してその結果何が起こり、だんなとり返しのつかない怖いことが起こるか検証しようともしない。目先の便利さや面白さばかり追ってる。
助川 クローンだって臓器移植だってそうだ。
松村 神を怖れぬ振舞いだよ。
助川 臓器移植なんて他人が死ぬのを待つことになるじゃないか。技術開発には商業的な利益もからむからね。
松村 だから、人の世の中がどうなるか、それに従って音楽がどうなるかが全く見通せない。二番の交響曲を書いた時、そういう絶望感みたいなものが何時も物凄くあったね。これから人の心の糧になる新しい音楽を「あらたに創造するということはどういう風に可能なのか」を考えると本当に大変な時代に居るなと思うね。だから、少しでも抵抗して遺言みたいなものを書こうかなと思っている。   (おわり)。

 

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