特集・座談会 20世紀をふりかえる
第一期 1901年から1930年まで(第一次大戦から大恐慌まで)
評論・浅岡弘和 研究・金原礼子 作曲・中島洋一 司会・助川敏弥
「20世紀プロジェクト」
司会・今日の座談会はこの会が企画している「20世紀プロジェクト」を前提としたものです。
この企画は20世紀100年の音楽の推移を、音楽だけでなく、土台にある社会、政治経済、の動きを観察して、音楽がそうした背景とどうからまり影響されて出来てきたかを考察展望しようというものです。また、そうした経過を象徴する作品の演奏によって世紀の生きた把握をめざそうというものです。
充分な準備の上で演奏に入るのは来年になるかもしれません。多分、五年くらいはかかるでしょう。20世紀を幾つかに区分しますが、第一のセッションは1901年から1930年までと区切りました。
この30年はどういう時代であったか。
歴史年表を見ますと、旧時代の安定が崩れ出して新しい時代に入りつつある。第一次大戦を経て、ヨーロッパでは旧体制が次々と崩壊する一方、帝国主義の最後の段階も継続している。ドイツが南洋諸島を占領植民地化。日本では日露戦争があり、朝鮮総督府の設置など遅れた帝国主義への進出。やがて関東大震災、日本共産党の創設。ロシアでは、1917年にレーニンの革命、やがてソヴィエト連邦の成立。中国では義和団の乱があり、反植民地運動もまた次第に台頭してくる。
一方で、技術とサイエンスの進展の始まりの時代でもある。ライト兄弟の飛行機発明、飛行船ツェッペリンの世界一周、アインシュタインの相対性原理の発表等々です。
やがて1929年にニューヨーク株式の大暴落。世界的大恐惶の時代に入り、ファシズムの時代に入っていく。
こうした展望が目に入りますが、この時代をどうとらえるか、ご意見をお聞かせください。
この30年をどう見るか
中島・私は、まずこの時代を見る前に、さかのぼって19世紀を観察したいですね。マルクス主義も19世紀の産物です。「共産党宣言」がたしか1849年ですか、ショパンの没年の一年前でしょう。中国の独立運動も阿片戦争のようないちじるしく理不尽な経済侵略があった。こうしたヨーロッパが積み重ねてきたいろいろなものが次第に崩れる気配を見せてくる。そこからして新しいものを創ろうという意識が芽生えてくる。第一次産業革命がすでに経過しているわけですから、そうした流れのなかに20世紀の初頭があったと考えますね。
浅岡・最初の30年で20世紀の問題はすべて出つくしているように思います。科学の発展も応用実用化はまだとしても理論はずいぶんこの時期に進みますね。物質的にもヨーロッパは豊かになってくる。その結果デカダンスの思想も出てくる。そろそろ文明の弊害が出ても来る。オルテガ、カール・バルトなどが警告の思想を持ち始めてるのもこの時代です。
司会・19世紀から受け継いだものにはロマンティシィズムもあったでしょう。
中島・「進歩主義」ですね。
司会・そう。「夢」ですね。平等で正義にもとづく社会が出来る。あるいは科学技術の進歩で人が幸福になる。そうした、いい方のことばかり考えた。マルクス主義だってショパンと同じ時期の産物だからロマン主義の思想ではないですか。人類の夢でしょう。
中島・それもそうだが、急激な産業の進展のために貧富の差が拡大して社会問題が深刻化したことも背景にありますね。そうした社会を改良していけば公正な社会ができるという望みを持ったのでしょう。
司会・「夢」ですね。それが20世紀の後半で幻滅を見るわけですが。
浅岡・大きな影響をあたえたのはダーウィンの進化論ではないですか。「進歩」という観念を提示し、心理的な暗示をあたえたのではないですか。私には、人は進歩いうよりむしろ退化しているようにさえ思えますがね。
司会・シェリー夫人が「フランケンシュタイン」を書いたのは19世紀初頭で、まだベートーヴェンが生きていた時代ですが、技術の進歩が不幸をもたらすという不吉な予感をすでに持っていたんですね。いまのクローン人間の予言みたいなものじゃないですか。
中島・いま「予言」ということをいわれたが、当時でもすべての人が進歩を信じたり、世の中がよくなることを信じたわけでもないのですよ。懐疑的な考え方が出てきた時代でもあります。
ドストエフスキーは唯物史観にたいへん懐疑的で、小説の中で社会主義の結末みたいなものを予測している所があります。彼は、人間の恐ろしさというか、人の中の善と悪は社会的なものでなくて、人の内側にあるもので、同じエネルギーである、大きな善は大きな悪に変る可能性がある、そんことを言っています。そうした人間の将来に対して警鐘を鳴らす人がいたわけですね。
私は、芸術家というのは、一般の人よりも予知能力がすぐれていて、普通の人が感じないような兆候を感知する人たちであろうと思います。だから、19世紀末と20世紀初頭の音楽はかならずしも明るくないです。未来への不安を予知している。
司会・カナリヤみたいなものですね。毒性をいち早く察知する。芥川龍之介の自殺も暗黒時代を予知したからともいいますね。
中島・ワーグナーの音楽もしかりで、現実への呪詛、いたたまれないもの、疎外、そこからして遠い世界への憧れ、そんなものがあります。
司会・ワーグナーはだいぶ前の人では?
中島・だから、早い預言者なんですよ。彼の半音階、クロマティシズムはのちにシェーンベルクが引き継ぐわけですが、単なる手法的なものではないでしょう。
夢が実現する明るい部分と懐疑が深まる不安の部分、その両方が前世紀末から20世紀始めにある。
映画とレコード
金原・私は、20世紀のおおきな変革要素は映画の発明ではないかと考えます。リュミエール兄弟の発明が20世紀初頭でちょうど100年になりますね。いままで、消えてしまうだけだったものが、保存再生ができるようになったこと、これは、大きな出来事ですね。司会・レコードもそうですが、レコードが産業化したのは1930年代ですね。
中島・ドイツでは表現主義が出ましたが、フランスでは少し出方が違いますね。ドイツのものより明るいというか、人間の暗い面よりも現実と違う所になにか見いだそうとするものがあるのではないか。光というものに徹底的に関心を持つ。印象派のような。
司会・浅岡さん、演奏の様式として時代をどうとらえますか。
浅岡・やはりレコードの発明が大きな要因でしょうね。指揮者ではニキシュの演奏がはじめて記録されていますが、大曲では「第五」だけです。1910年か13年か。録音は19世紀の終りから始まっていますが大規模な録音は20世紀に入ってからです。
司会・ブラームスの自作自演の録音があるそうで、北海道のテレビ局が芸術祭でとりあげていましたが、復元はできなかったようです。
中島・直前になって演奏曲を変えたんでしょう。
司会・ピアノの腕が落ちていてどうも演奏に自信がなくなったようですね(笑い)。
20世紀前半の指揮者たち、フルトヴェングラー、トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、メンゲルベルク、こういう人たちはやはりロマン派の演奏思想の中に入るんでしょうか。
浅岡・広い意味ではそういうことになるんでしょうね。
フランスの事情
司会・年表を見ますと、前世紀からの世代の作曲家たちがこの時代に次々と生涯を終えていく。ウォルフ、ドヴォルザーク、サラサーテ、リムスキイ・コルサコフ、グリーク、アルベニス、マーラー、レーガー、ドビッシイ、スクリアビン、サンサーンス、フォーレ、プッチーニ、ヤマチェック、もう少し長生きしたのが、デュカスとかサティとかベルクですね。金原さん、フォーレの音楽に時代の反映といえるものがありますか。
金原・あります。直接的には、ナポレオンの100年祭の時に、状況音楽といいますか、そういう種類の音楽を作っています。一方、政治社会に直接関係するのではなくても、文芸の変遷が特に歌曲にいちじるしく反映していますね。文芸の方のロマン派があり、それから高踏派が来て、そしてサンボリズムが来る。ここでおおきいのがヴェルレーヌとメーテルリンクの存在です。この二人はフォーレにとって大きな存在だつたし、またドビッシイも大きな影響を受けています。言葉に対する曲の付け方がそれまでと全く変ってきて、それまでは、いわゆる歌謡的なあり方だったのが言葉を立てるようになりました。18世紀の「大革命」の時にカトリックの音楽が大衰退したんです。坊さんたちが王統体制派と思われるのを恐れて消えてしはったんですね。ですから、ナポレオンの頃にはグレゴリオ聖歌を歌う人たちがいなくなってしまったんですよ。教会音楽がひどく衰退してしまったんです。コンセルヴァトワールはそもそもフランス大革命のあと軍楽隊の隊員の養成のために創設されましたからね。
司会・えっ。軍楽隊のために?
金原・そうですよ。
司会・それじゃ、日本の「音楽取調所」と同じようなものじゃないですか(笑い)。国家の実用的目的のためだ。脱線しますが、初代院長はケルビーニですね。
金原・なぜケルビーニだったか判りますか?彼は外国人でしたね。音楽家の多くは王室に仕えていたんで、革命の結果身辺が危なくなって逃げちゃったんです。それで、外国人を連れてきたわけです。ほかにも外国人の教師が沢山使われています。この結果、フランスの音楽は外国の方法流儀がずいぶん支配的になってしまったんですね。それを根本的に改革したのはフォーレが院長になってのことです。
司会・ずいぶん後のことですね。
金原・1905年ですよ。その前にナポレオンがずいぶん教育改革をやって、エコール・ノルマルとかそのほかの学校を創立したり、芸術の振興をしたんです。あの人は教育振興をずいぶんやっています。
ロマン主義と反ロマン主義と
司会・浅岡さん。20世紀初頭の演奏は広義のロマン主義に入るとは思いますが、たとえばフルトヴェングラー、この人の音楽は、一時代の流れいう意味ではなく、人間精神の永遠のものとしてのロマン主義の体現者という見方がありますね。しかし、この時代、シェーンベルクやウエーベルンがすでにスタートしているわけですから、そうした新旧二つの流れをどう見ますか。
浅岡・ロマン主義というのは、永遠に充たされないものですから、虚無的なものとは違いますね。ロマン主義とは、いま居る世界ではなくて、どこかに理想の地があるという思想ですからね。フルトヴェングラーという人は自身を作曲家と考えていた人ですしね。指揮者は職業上の仕事としていたわけです。
全体に20世紀の芸術というのは型が破壊されてしまって拠り所がないので、かえって自由もなくなるので、なにかワクになるようなものを必要としてきた。それが知的なものへの希求にもなったんでしょうが、そこに予定調和的な性格が入ってくると、計画経済みたいになってきますね。
司会・世紀初頭の表現主義はやはり何か底知れぬ時代の不安を感じていたんでしょう。
シェーンベルクとはなんだったか
中島・フォーレの音楽は、初期のものは調性がはっきりしていて和声も割り切れていますが、中期になってサンボリスムの詩に触れた後のものは、調性が複雑になって、和声、形式も単純なものでなくなっていきますね。それも時代の潮流の影響でしょうか。
金原・もちろんそうです。
司会・近代フランスの音楽に現われる中世旋法は、あれはナショナリズムでしょう。ドイツ音楽の支配に対してフランスの独自性を主張しようとしたものでしょう。それから、ドビッシイの音楽も自然主義的に聞こえるけれど、よく調べると、あの中に半音階が仕込んでありますよ。とんでもない所にトリスタンの和音が隠し絵のように忍ばせてあるんですね。だから、まったく独創的なものに聞こえるけれど、それまでの音楽と連続性があるんですね。
それで在来の人たちが段々生涯を終えていく中で新しい世代の人たちがスタートしていく。シェーンベルク、ウエーベルン、フィッツナー、ストラヴィンスキー、バルトーク、プロコフィエフ、ショスチコーヴィッチ、メシアン、などです。この人たちはそれまでの人たちが持っていなかった問題意識を持ったということが言えますね。
中島・シェーンベルクが無調に至った経緯とカンジンスキーが抽象主義に至った経過がまったく並行していますね。時代の不安感を表現するには在来の手法では足らなかったということでしょうね。感性の先行です。それが第一次大戦後あたりから理論化を試みる。知への傾斜といいますか。それが時代の傾向てしょうね。ロマン主義から理性への傾斜。ただ、私の聴く限り、12音に至る過程の曲は面白いが12音になってしまってからの曲は余り面白くないですね。
司会・ピアノ組曲、面白くないですね。でもともかく理論化を完成してしまったからね。それから、西洋の人はギリシャの昔から音楽を理論と結びつけていましたからね。その点は日本人とはまったく違う。日本人は音楽は情緒としか捉えなかったから。
私が小学生だった頃、昭和10年代ですよ、「新女苑」という女性雑誌があって、私の姉が購読していたんです。それに河上徹太郎が連載で作曲家論を書いていたんですよ。それにシェーンベルクが出たことがありましてね。もっとも、それを私が読んだの戦後で、音楽の勉強を始めてからですが、いまだからこそシェーンベルクも大作曲家として扱われているけれど、当時は分る人はいない時代でしょう。私も分らなかったけれど、印象としては気違いじみた独り善がりのヘンな人というふうにしか印象はなかったですね。
ただ、あの当時、無調を組織化することはほかにも何人もの人が考えて工夫していたそうですね。その中でシェーンベルクの技法が一番誰にも使いやすかっんだそうですよ。それと本人の作曲がりっぱだったこと、それであの人の成果だけが残ったということのようですね。
金原・「月につかれたピエロ」は原語はフランス語なんですね。それをドイツ語で作曲している。
司会・題は「ピエル・リュネール」というフランス語ですよ。
第一次大戦前後で芸術は大衆化
金原・19世紀末、たいへん難解なサンボリズムが勃興してきて、歌曲を作曲する場合、無調の傾向と、それと、話し言葉に近い扱い方が出てきたといえますね。20世紀初頭にはフォーレも同音で語るような形を造る。旋律の美しさを主体にしない。ヴァレリーは、フランス語は歌うより語るように造られていると言いましたしね。
司会・日本語もそういう所がありますね。ところで、やはり、旧世代の人たちは新しい時代の問題意識は持っていなかっんでしょうかね。
金原・持っていたと思いますよ。ラヴェルはフォーレの弟子ですが、フォーレはラヴェルの影響を逆に受けています。
中島・第一次大戦を境にして芸術は全く変化したと思います。苦悩や絶望を極限まで推し進めてそこに幸福を追求するという、これまた一種のロマン主義ととれる思想です。
司会・それはリアリズムとまぎらわしいですね。
中島・その通りです。それに対して、キュービズムは全くの反ロマン主義です。物をいろんな角度から見た結果を同時に書こうというのですから。大戦前はロマン主義最後の時期で大戦後は明確に反ロマン主義が出てくるわけです。
司会・1918年以降ですね。ドビッシイが死んだのが18年だから。
中島・さっきの「知への傾斜」もそうです。もっとも私は、シェーンベルクの作品でも、無調に入った頃の曲はいいが12音技法完成後の曲はどうもおもしろくないですがね。
司会・反ロマン主義が決定的になったのは第二次大戦後でしょう。
浅岡・戦争の性格も変わりましたからね。昔の戦争はスポーツ的な性格があったけど、20世紀に入ると破壊がすさまじく、一般市民も差別なく殺戮するし、大量破壊、大量殺戮になった。戦争が人に与えるものが以前とはまるで変ってしまった。それもまた芸術と芸術家に大きな思想的衝撃をあたえたでしょう。反ロマン主義の要因のひとつとですよ。
司会・第一次大戦は第二次大戦らくらべて牧歌的な戦争かと思っていたらそうではないんですね。大変な大量破壊があったんですね。一つの町や村が消滅してしまうようなことがあった。
不安な時代が文化を生み出す?
金原・1913年というのは不思議と傑作が集中的に現われていますね。ストラヴィンスキーの「春の祭典」、シェーンベルクの「月のつかれたピエロ」は1912年ですが、ドビッシイとラヴェルは「マラルメの三つの詩」という歌を書いています。
司会・不安の時代なのに創作力はきわめて旺盛ですね。人間の活力はどう動くものなのか。
中島・深遠な文化を生み出す社会は決していい社会ではない。不安とか懐疑とかを考える社会が文化を生みます。「19世紀末は時代的にはとても不安な時代だったけど芸術の世界はたいへんに実りの多い時だった。20世紀末は人がコンピュータを使うのに疲れて芸術的には不毛な時期ではないか」と亡くなった文芸評論家の江藤淳氏が語っていました。
司会・日本でも、昭和10年台のはじめ、戦争に入っていく時代だけど「国民歌謡」で大変な名曲が次々と生まれている。「椰子の実」「朝」「春の唄」。それから戦争の中期までも「露営の唄」「愛馬行進曲」「太平洋行進曲」「空の神兵」など名曲あまたです。いまこんな歌はまったく出てこない。
中島・危機、不安、高揚、そんなものがある方が刺激になるんでしょう。
司会・人間存在がそもそもそういうものだから、存在を考えさせる状況の方が精神も高揚される。ノー天気に生きていられないのが本来の人間のあり方ということですか。
浅岡・フルトヴェングラーの演奏も戦争中のものが一番いいですね。
司会・空襲で中断した演奏会の録音がありますね。NHKで放送したことがあった。しかし、芸術文化のためにわざわざワルイ世の中を作るというのもおかしな話で(笑い)。
中島・ただ、いまの若い人には、何かあるものをつきつめるということに疲れているという所がある。
司会・でも、ヒトラーやスターリンのような時代になると、幾らなんでも文化も芸術も出来ない。ほどほどという所があるんでしょうか(笑い)。
それから、現代の顕著な現象の一つとして大衆の解放ということがありますね。これがずいぶん色々な形で現代に作用していますね。わるく作用すると、良質な芸術が大衆的でないという理由で排除される。俗化ですね。しかし、それが逆に成果をあげたのがアメリカの大衆芸術でしょう。映画、ミュージカル、ショウ、すべて、ヨーロッパの貴族文化ではなかったもので、しかしも質を落とさなかった。
浅岡・ジャズもその一つでしょうね。ジャズも20世紀が生んだ独自なものではないですか。
司会・しかし大衆の本格的解放は第二次大戦後でしょうね。
フランスとドイツその宿命と芸術
中島・話を戻しますが、20世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツとフランスの芸術はひどく違うんですね。美術でいえば、ドイツは表現主義なのにフランスは印象主義、音楽では、ドイツは半音階的な導音過剰に対してフランスは中世旋法、ことごとく違う。地理的に近い二つの国がこれだけ違う文化を持ったことは大変注目されますね。
金原・普仏戦争、プロシャとの戦争に負けたことがフランス人にとっては大変な衝撃だったんですね。精神的な落ち込みは大変なものだったんです。フランスは負けて、ドイツは大ドイツ帝国を作る。そしてドイツ皇帝の即位式をヴェルサイユでやった。フランス人は大変な屈辱感を味わったんです。その後、またパリ・コンミューンの騒動があってフランスはまた大混乱に入る。国民音楽運動はサンサーンスやフォーレがそんな中で、コンミューンの直後に興したんですね。そこでフォーレとかドビッシイとかが演奏して認められていった経過がありましたね。ドイツとフランスはルイ王朝とハプスブルクの時代からいがみあってますから。ナポレオン以後フランスは戦争には弱いですね。
時代を象徴する音楽
司会・そろそろ音楽との関連を考えたいのですが。
中島・シェーンベルクの「浄夜」、これは1899年の作ですが、ロマン主義的な音のひびきの中に来たるべき不安への予感がひそんでいる部分がある。
司会・時代を代表し象徴する作品はどうですか。
金原・ストラヴィンスキーとサティですかね。司会・サティは音楽の社会的機能について新しい思想を持っています。現代の環境音楽の開祖のような。
中島・私はドビッシイ、ストラヴィンスキー、ベルクをあげます。ベルクは「抒情組曲」とピアノ・ソナタ、ピアノ・ソナタは1903年ですね。
金原・プーランクもあげられますね。
中島・「六人組」はビュッシーなど印象派の作曲家達のモヤモヤとした音楽に対して反旗を翻した訳ですが、ビュッシーの音楽を広義の意味でロマンティシズムとみなせば、ロマン主義への反対であったともいえますよね。
司会・いままでも話に出ましたが、この時期は古い時代の人たちの末期と、新しい時代の人たちの始まりの両方の時期が存在している時代だから、新しい人たちもあげたいあげですね。
金原・ラヴェルもいますね。1906年作曲のルナールの詩による「博物誌」。
司会・「子供と魔法」は後ですか。
金原・1925年初演ですよ。1975年頃、小沢征爾の指揮で東京文化会館でやりました。
司会・この期間に入りますね。これはおもしろい作品ですね。ディズニーの世界を思わせるものがある。英語が出てて「I box you」とか「セッシュウ・ハヤカワ・ハラキリ」とかね。
中島・この曲はおもしろいですね。
これはこの会でもエレクトーン・オーケストラを使って出来るんじゃないですか。わかりやすいしね。この中から部分を選んで演奏したらどうですか。全曲でも35分くらいですよ。
司会・出演はソプラノ一人ですか。
中島・いいえ!主役の子供の他に、お姫様、大時計、ティーポット、動物たちなど色々な配役があり、そういう配役達が一緒に歌う合唱があります。
司会・浅岡さんはどうですか。
浅岡・どうしても自分が好きで関心ある曲になると古い曲になってしまいますね。マーラーとかシベリウスとかね。「ペレアス〜」もいいですが。
金原・民謡に関心を持つようになってきたのもこの時代ですね。ラヴェルの「マダガスカルの唄」は、18世紀の詩人、パルニ男爵の詩によるフランス語の歌曲です。
中島・日本の美術に関心を持ったのと同一の傾向じゃないですか。
司会・ただね、その場合、単なる異国趣味と、もう一つは、自分たちの文化的閉塞を打開するための材料として利用する思想が西洋には昔からある。これは他民族の文化への理解と尊敬とは似て非なるもので、はっきり区別する必要がある。現代の日本にもそれはある。日本の音楽文化を研究しているようで、実は、外国の文化界に足場を作るために、日本人でありながら、まるで外国人のような視点で日本の文化を扱っている人がいる。バルトークなどの民族主義とはまったく違うものですね。
金原・ラヴェルの「マダガスカル」とか「七つの民謡」はそうでもないですよ。「二つのヘブライの歌曲」というのもありますが、この歌詞は本来は原語のままだったそうです。
司会・それは歌詞でしょう。旋律はどうなんですか。
金原・旋律は自分のものです。この頃、やたらとヘブライの題材のものが多いんですね。シオニズムの現われかもしれません。
司会・フランス人というのは、印象派、象徴派のようなモヤモヤしたことを好む性質があるかと思えば、反対に、明晰、明解、を好むところもありますね。両方のものがあるんですかね。ドビッシイと六人組のような相反する方向性ですね。モヤモヤ派とハッキリ派ですね。
金原・両方あるんでしょうね。互い違いに出てくるようですね(笑い)。
司会・思想的にもデカルトとパスカル、パスカルは多少神秘主義的なものがあるんですかね。
中島・そうじゃないでしょう。明晰さを信じるけれど人間の知性だけでは分からないものがある、神、という、そういう考え方でしょう。ただの神秘主義者ではないですよ。
司会・人間の意識の明晰さを尊ぶところがフランス独特のものですね。考える葦、という思想も、弱くはあっても自分でものを考えるところに人間の尊厳があるということでしょう。それはカミユまで行ってますね。知っていて努力することがりっぱだという、シジフォスの神話ね。
中島・ベルリオーズの音楽は元気がいいけど感傷的ではないですね。シューマンのような夢見るようなところはない。
ヨーロッパ主導は仕方がない
この時代を代表象徴する音楽は
司会・こうして話してくると、ことごとくヨーロッパ中心の話題になってしまうけれど、グローバルな観点で捉えようとしてもどうしてもこの数百年はヨーロッパ主導で世界が動いてきたことは否定できないですね。
中島・第二次大戦後、ヨーロッパが築いてきたものが崩壊しそうになってきたけれど、それがなくなって別なものが出てくるのではなく、ヨーロッパのものに別なものが加わって活力を与えていくとうことになりましたね。
司会・この「20世紀プロジェクト」 は第一期が今回の1930年まで、次が1930年から1945年まで、ファシズムと戦争の時代。次が、1945年から1970年まで、冷戦第一期、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、反体制運動の高揚。次が、1970年から1990年まで、公害の問題化と共産圏の崩壊まで、次が、1990年以降、共産圏の消滅とバブルの崩壊、環境問題、人口問題、資源問題、道徳の崩壊。
中島・それと音楽との関連をどう捉えるかですね。
司会・それと、大衆の台頭は大きいですね。文化や音楽の社会的位置づけがまるで変ってしまった。芸術音楽に対して大衆音楽が膨大な比重と量をもって機能するようになった。その一つとしてロックの存在がありますね。私は、1972年にソ連に行ったんですよ。それも、ハバロフスク、イルクーツク、それと、バイカル湖の北の方に出来たブラーツクという人口の工業都市、これはすごいSF的な都市でしたが。そういう所に行ったんですね。当時はソ連全盛期ですが、ロックがすごいんですね。終末になるとホテルのレストランが片づけられてディスコになる。大音響のエレキバンドが入って、若い人たちが踊り狂ってるんですね。みんな長髪にジーパンで西側の風俗と同じです。思想体制を超えて世界を横断したロックとはなんであるか。これは知るべきでしょうね。
20世紀で顕著なことは、そのほかに商業主義の激化、大芸術家が育ちにくい環境になりましたね。コンクールによる即席栽培。だから自らも競争の渦中に入って、勝利者の側の心だけを歌うようになる。弱者、傷ついた人、倒れた人の心をやさしく歌い慰める音楽がなくなってしまった。昔の大音楽家はそういう音楽を聞かせてくれたものですがね。フジコが売れるのもそれがあるからでしょう。でもそのためには世捨て人にならなきゃならない。
浅岡・それは19世紀の神がまだ生きていた時代の産物みたいに思いますね。20世紀になって芸術がサブカルチュアになってしまったように思えますね。芸術はほとんど消え去ろうとしているようにすら見えますね。
中島・人間はどんな不安な中にあっても自分を表出したいと思うので、それがある限り、芸術がなくなることはないでしょう。
(2月24日、新宿区角筈区民センター会議室にて)
※この稿では、2001年4月号掲載記事の校正ミスなどの誤りを訂正してあります。