特集: 新旧編集長対談
〜戦争・社会・音楽・人生を語る〜
新編集長:助川 敏弥 /現編集長:中島 洋一
それぞれが育った時代(戦中の記憶)
中島:新旧編集長対談に応じていただきありがとうございました。お互いに近くにいながら、このような機会はなかなか持てないので、本日は、噛み合わなくともよいから、お互いに世代や立場を超えて自由に意見を言い合うようにしたいと思います。
ところで、助川さんは1930年生まれですので、戦前、戦中、戦後と生きてこられたわけですね。
助川:そうです。中学3年で終戦を迎えましたから。私より一年上に黛敏郎さん、間宮芳生さん、もう少し上に芥川也寸志さんや団伊久摩さん、一つ下に林光君、三つ下に三善晃君がいます。同世代には曲家が多いですね。
中島:わたしが生まれたのは、太平洋戦争が始まった1941年12月8日の19日前ですから、助川さんより11才年下です。従って戦後世代になりますが、それでも、三つ下の弟が生まれた1945年3月8日以降は、少し記憶があります。空襲に遭う前の長岡の母の実家や、叔父の家に行ったこと、7月に祖父が亡くなった時のこと、8月1日に長岡が空襲に襲われ、翌日叔父一家が焼けどを負い、実家である私の家に逃げて来て、それからかなり長い間、田舎で一緒に生活したことなどを、かなり鮮明に憶えています。しかし幼すぎて周りに起こったことの意味を理解していたわけではないので、自分でものを考えられるようになったのは、戦後のことですね。
それで、まず11才年上の助川さんから、戦時中の体験をお話し願いたいと思います。
助川:はい、私が戦争でショックを受けたのは感じやすい10代の頃でしょう。日本が軍国主義になって、軍事教練があって、先生が暴力を振るったり、また質問も許さないような空気があって、とても嫌でしたね。それが負けて解放されて、自由主義、民主主義になって、嬉しかったですね。理屈が通る世の中になった。今まで馬鹿な話をしていた奴らはどこへ行ったのか思いましたね。それから、日本に入って来た米軍が紳士的だったですね。実際には色々なことがあったのだろうけど。それと、最初に進駐軍の先遣部隊が来た時、自動車の形に驚きました。無駄な装飾がなく、機能性に徹しているんですね。アメリカは贅沢な国だと思っていたけど、アメリカの合理主義,機能主義をはじめて知りました。それとアメリカの兵隊さんが家に遊びに来るようになると、「この戦争は何だったのか」を活発に議論するのです。占領軍という威張った感じはなかったですね。もっとも、この当時の兵隊さんには戦時動員令で一般市民も混じっていて、教養のある人もいたのでしょう。
中島:戦時中「鬼畜米英」などという言葉が流布したようですが、これは敵愾心を煽り、戦意を昂揚させるための「にわか仕込みの憎悪」だったんでしょうね。もともと近代以降に限ってみても、日本人には米英人対する憎悪などは殆どなかった。「少年よ大志を抱け!」の言葉で有名な米国人のクラーク博士や、日本アルプスの紹介者である英国の宣教師ウェストンなど、日本人から最大級の尊敬を受けていた米英人は少なくない。ヘレンケラーが1937年に来日した際も大歓迎を受けています。ところで、戦時中の多くの人達が本当に「鬼畜米英」といった感情を抱いていたのでしょうか。
助川:いや、そんなことはないですよ。醒めていました。しかし、疑問を唱えると、何かいわれたり、場合によっては暴力を振るわれたりするから、口をつぐんでいました。
それから、ぜひ言っておきたいことがあります。洋一さんは機械が好きだけど、私も好きです。それは、戦時中は物も道具も無く精神主義がはびこり、手作業で重い物を運ばされたり、稲刈りをさせられたり、工場で働かされたり、すべて肉体労働なんです。体力のある人はいいけど、そうじゃない人はいじめられる。その頃、アメリカ軍は大量の機械を使って反抗しているいるという情報を入ってきました。日本はもっぱら精神主義一辺倒で、それで戦争に負けた時は「ざまみやがれ」と思いました。
人は過去については良いことだけを思い出すものです。今は至る所が機械化され、手仕事による名人芸が廃れたと嘆く人もいる。しかし、もともとその方面の才能があり、手仕事の資質を持つ人はいいけど、才能、資質、体力のない人はいじめられて悲惨ですよ。そういうことを忘れている。だから戦後になって機械が普及したしたことを私は大歓迎しています。個人差がなくなりますから。
中島:太平洋戦争が始まった後、私の叔父が祖母に真珠湾攻撃について「後ろを向いていたアメリカを不意打ちしたので、アメリカは一時的によろめいた。しかし、アメリカは文明国なので、体制を立て直し、正面を向いたら、高度な武器も大量生産が出来るし、とてもかなわない」と語っていたそうです。竹槍とバケツリレーでは勝ち目がないと思っていた人も、かなりいたのでしょうね。
助川:それはそうだけど、うっかりそういうことを口に出すと特高警察に捕まるなど、怖い目にあうから黙っていたんですよ。
助川敏弥氏 (2014年4月撮影) |
そして終戦
中島:そして、広島、長崎の原爆投下を受け、8月15日の玉音放送で終戦となります。
助川:洋一さんは玉音放送を聞かなかったの?
中島:ええ、まだ3才ですから、聞いても理解出来なかったでしょう。でも、しばらくしてから終戦を知りました。
助川:玉音放送の天皇の言葉は難しく、そして聞き取りにくくてよくわからなかったです。その後で、NHKのアナウンサーが「戦争もとうとう矛を収めることになりました」と解説してくれたので、ようやく終戦が判りました。
中島:その時の同年配の軍国少年?たちはどんな反応をしましたか?
助川:意外に醒めていましたよ。負けたことを知って笑っている者もいました。
中島:私の親族のうち、叔父は敗戦を予測していたのですが、実際に敗戦を知った時は、泣いたそうです。
子供の頃の微かな記憶しかありませんが、その日を境に、世の中も色々変わったようです。戦時中は「兵隊さんに会ったら敬礼するんだよ」と教えられましたが、戦後は、「進駐軍に会ったらハローと言うんだよ」に変わりました。このような対応の急変について、「日本人は恥知らずで節操がない」などとの批判も受けますが、もともと多くの日本人の心に、米英人に対する根深い憎悪などなかった筈なので、私は必ずしもそのように捉えてはいません。
それから教育環境も敗戦を境に大きく変わりました。私より二つ上の姉は1946年に学校に入学しましたが、その頃はまだ、国民学校と云われており、教科書も古いものを、具合の悪い箇所を墨で塗りつぶして使っていました。
助川:そうですね。ずいぶん墨で塗りつぶして使っていましたね。
中島:私が入学したのは1948年ですが、その頃には名称も小学校となり、教科書も戦後新しく作ったものに変わっていました。
助川:終戦直後は、特に都会の生活者は食料の確保が大変で、農家に着物を売ったりして食料の買い出しをしなければならず、苦労したのですが、洋一さんはどうでしたか。
中島:私の郷里は田舎で農家の親戚もいたため、米などは入手出来、ひもじい思いはしませんでしたが、家業は海産物問屋だったものの、戦後しばらくは商品の魚が入荷せず、色々苦労していたようです。それから1946年頃、新しい家を建築中だった長岡の叔父の家に遊びに行った時のことですが、叔父が、ねえやさん(家政婦)に、「子供達が来たから、お菓子を買って来てあげないさい」と指示したところ、お使いから帰ってきたねえやさんは「長岡中の店を回りましたが、お菓子を売っている店は一軒もありませんでした」と告げ、代わりにあめ玉をもらったことを憶えています。しかし、そのような物資不足も戦後しばらくすると急速に解消して行きました。
戦争についての総括と検証
助川:戦争のことに話を戻しますが、戦時中,戦地から一時帰ってきた近所のおじさんが、日本軍がずいぶんひどいことをやったことを子供達を集めて手柄話とし話していましたよ。
中島:日本人だけがとくに残忍ということではなく、戦争は人格を狂わせますからね。今では南京大虐殺はなかったなどと言う人もいますが、私は子供の頃、南京大虐殺の記録写真を見たことがあります。被害者の数など正確な情報が掴みにくくなっているのでしょうが、あったことは否定できないと思います。
助川:誇張はよくないけど、やったことは認めないとね。やっていないことを謝る必要はないでしょうが。
中島:ところで子供の頃「私はシベリアの捕虜だった」という映画を見たのですが、アメリカの捕虜になった人はまだしも、シベリアで捕虜生活を送った人は悲惨だったようですね。
助川:あれはひどかったですね。でも、今では事実が明るみに出ています。それから角度を変えてみると、ソ連の人々は第二次世界大戦で最も大きな被害を受けた国民でもあるのですよ。レニングラードやスタリングラードの対ドイツ戦では、兵士のみならず、膨大な数の市民が犠牲になっています。
中島:そうですね。ロシアの人達も大きな苦しみを味わいましたね。相手に苦しみを与えたり、自分が苦しんだり、それが戦争というものでしょうね。ところで、戦後、ドイツは戦中ナチスが行ったユダヤ人虐殺を含めた侵略行為を戦争犯罪とみなすことで、戦勝国との間で共通認識を確立し、戦争を総括したようです。
助川:しかし、ドイツ人にも色々いて、私のドイツ人の友人作曲家は「日本はいずれ原爆を作ってアメリカに落とし返すんだろう」などと本気で言っていますよ。
中島:個人的には色々な考えの人がいるでしょうが、国家としてはナチスの行為を犯罪とみなしています。ただ、ナチ党が第一党となった最後の1933年総選挙でナチ党の得票率は43%で過半数を満たしていません。従ってナチ党に投票しなかった人も大勢いたわけです。それに対して日本は、国家をあげて戦争を総括するということは、なかなか難しかったと思われます。それでも戦後50年経て、村山談話などが出されました。総理大臣の談話は国際関係に重要な影響をもたらしますが、いま最も必要なことは、誰がよい、誰が悪いという倫理的評価を下すことよりも、まず正確に検証することだと思います。
助川:日本の場合は、はっきりとした政党があったわけでなく、見かけ上は挙国一致体制のもとで戦争に走ってしまったのだから、総括はなかなか難しいかもしれませんね。
中島:検証は、出来れば国家の利害を超えた視点で、正確に行われるのが望ましいと思います。ところで、私がオランダにいた頃、英語教室の秘書として新任したインドネシア人の女性に呼び止められ「私は日本人を尊敬しています」と嬉しそうに言われたことがあります。その話をオランダの友人にすると、日本人が侵略者だった歴史を知らないからだと皮肉を言われましたが、私は彼女の無知から出た発言ではないと思っています。
助川:そうでしょう。インドネシアでは独立戦争の時、現地に残っていた日本の兵士が助けたりしましたからね。
中島:ですから、日本の軍部が掲げた「アジア民族を欧米列強の支配から解放する」というスローガンも、100%嘘っぱちというわけではなかったと思います。
助川:しかし、インドネシアはともかく、フリッピン、韓国、中国などでは、対日感情が悪いですね。
中島:色々な観点から検証する必要はありますが、総体的にみれば、やはり今度の大戦が侵略戦争であることは否定し難い事実と思います。
助川:しかし、過去を振り返れば、英国などかなりひどいことをやっているけどね。
中島:19世紀には、強い国が弱い国を食い物にすることは当たり前のことでした。しかし、第一次大戦の悲惨な経験を経て、欧米の人達の戦争に対する意識が変わったと思います。
助川:あの戦争では毒ガスも使われたしね。かってない大量殺戮が行われた。
中島:ところが、日本は第一次世界対戦の被害を殆ど受けなかった。そして日露戦争の格好いい戦争のイメージを引きずったまま、第二次世界大戦に突入した。そして、多くの他国人を殺害し、多くの日本人も犠牲になった。歴史から手ひどい仕打ちを受けたわけですが、その悲惨な体験を、得がたい教訓とすべきと思います。
戦争とテロについて
助川:ところで、私はこれからの時代は国家間の大きな戦争は起こらないと思います。なぜかというと、これだけ武器が高度化して破壊力が大きくなるとどちらの側も無事ですまないからです。戦争で企業が儲けるというレーニンの資本主義の論理もう通らないです。一方、テロが出てきましたね。これは困りましたね。
中島:私も大体同じ考えです。俳優の故菅原文太さんが政治家の大切なつとめとして「国民を戦争に巻き込まないこと。国民を飢えさせないこと」と言っていますが、これは正論でしょう。ただ、かつて起こった色々な戦争の要因をつきつめると、「国民が飢えにさらされている」という国家の窮状からの突破口を求めて、結果的に戦争になってしまったということがあると思います。世界大恐慌により多くの失業者が生まれ、そういう人達に食い扶持を与えるため、満州国を建国して入植させたという、事情があったかもしれない。ドイツの場合も、世界大恐慌がもたらした窮状が戦争の引き金になっていると思います。
しかし、現在では戦争が国家の窮状を打破する突破口になるとは思えません。そんなことをすれば国際世論の信を失い、各国との間に築いた経済、人的交流の絆も切れてしまいます。つまり、戦争は国家に不利益をもたらしても利益はもたらさないのです。また、国家が大戦争に向かうためには多くの国民の賛成が必要ですが、テロの場合は千分の一、一万分の一の人間でも起こせます。つまり少数の狂信的な人間や、不満分子が集まれば、大きなテロを引き起こすことが可能なのです。私は、近未来においては、国家間の大きな戦争が減るのに反比例して、テロは増加して行くとみています。
助川:困ったことだね。マルクスも、レーニンも、ゲインズも、テロの発生は予測が出来なかったからね。
戦後から今の時代までを振り返る
左:北條直彦氏:右:中島洋一(20114年4月) |
中島:さて戦後の時代に移り、助川さんは音楽家への道を歩み始めるわけですが、私が育った田舎町でも、小さな音楽会が開かれたり、歌舞伎の心得のある人が指導して、野外ステージで素人歌舞伎を上演したり、ささやかながらも文化活動も盛んになりました。戦後間もない時代は、物はなかったけど、悲壮感はなく、自由で開放的な空気が漂う時代だったような気がします。
1950年には朝鮮戦争が勃発しますが、皮肉にもその戦争の特需で我が国の経済は持ち直し、急速に豊かさを取り戻して行きます。
そして、戦後15年を経た1960年には安保闘争という多くの大衆を巻き込んだ政治運動がありました。多くの人達は、二度と戦争に巻き込まれたくない。あるいは非民主的な強行採決は許せないという思いで参加したと思いますが、やがて日本においても資本主義の時代が終わり、マルクスレーニン型社会主義体制に移行する、と本気で思っていた人もかなりいたのではないかと思います。
助川:当時は、本当に政治体制が変る、社会主義体制の方がより進歩した国民のための体制だと信じていた人が多かったですよ。
中島:私は安保の頃は、不勉強なノンポリ学生でしたが、その後色々本を読み、1965年の時点で、一党独裁体制を核としたマルクスレーニン型社会主義体制について懐疑的になり、それ以降、そういう体制を一度も認めたことがありません。
60年安保の後、池田勇人が総理大臣になり、高度経済成長の時代に入りますが、64〜65年の早稲田闘争を皮切りに70年代初頭にかけて、学園紛争が頻発する時代がありました。学生達をリードしたのは、全共闘、民青など左翼系の学生でしたが、多くの一般学生も参加しています。その運動が何をもたらしたか、いまだ検証するのは難しいですが、その頃の若者達には、自分たちの力で世の中を変えることが出来る。あるいは変えて行かなくてはならない、という前向きな思いがあったのだと思います。そういうタイプの若者を第1のタイプとすると、第2のタイプはロマン・ロランの「ジャンクリストフ」などに心酔し,自分なりの理想的人間像を追い求めて自我の確立を目指した若者たち。第3のタイプについては、私の中学時代級長をしていた友人を例に出しますが、彼は大学卒業後「トヨタ」に就職し、車の設計に携わるようになります。「自分の設計した車に多くの人が乗ると思うと、生き甲斐を覚えるとともに、大きな責任を感ずる」と語っていました。彼は自分の仕事に忠実であろうとする良い意味での職人魂の所有者で、こういう人達がいてこそ、日本の高度成長が成り立ったのだと思います。この3つのタイプは一見異なる道を求めているように見えますが、根元では繋がっていると思います。
ところが、高度経済成長が展開して行く中で、学生運動家は一般学生や社会から遊離し極左化し自己崩壊していまいます。また自我の確立をめざす風潮も、しだいに風化して行ったような気がします。物作りに賭ける職人魂はいまでも生き残っているかもしれません。物が溢れる中で、若者達が自分の心の核となるものを探しあぐねている時、統一教会やオウムのようなカルト教団が勢力を伸ばし、若者達の心を捉えて行きます。地下鉄サリン事件から20年立ちましたが、世の中に馴染めない真面目だが不器用な若者達が、オウムのようなカルトに取り込まれやすい状況は、今も変わらず存在すると思います。
助川:IS(イスラミック・ステート)などもカルト集団でしょうね。
中島:オウムとは性格がかなり異なりますが、カルトでしょうね。
助川:ISには、欧州の若者たちも参加しているようです。彼らは差別されているわけでもないのに。
中島:欧州から参加している若者たちの多くはアラブ系の移民と思われますが、中には生粋のアングロサクソンや、フランス人もいるようです。
助川:なんで、そういう若者たちがISに加わるのでしょうか?今の世の中に大きな不満を抱いているのかな?
中島:西洋が中心になって築いて来た現代社会の仕組み道徳律は間違っている。武力に訴えてでもそれを壊し、価値観の異なる新しい世界を築かなければならない、と狂信的に信じ込んでいるのでしょうね。
助川:それは困ったね。
中島:そういうものが蔓延る根本要因について深く考え、世界の人々が協力し、対策を考えて行く必要があるでしょうね。
資本主義と社会主義
助川:1964年の東京オリンピックが成功し、池田内閣の高度成長政策、所得倍増政策が始まった時、所得は倍になるが、物価は三倍になると批判した経済学者がいた。しかし、実際にはそうならなかった。
中島:物価も上がりましたが、給料の上がり方がずっと上回り、庶民の暮らしは豊かになって行きました。その頃は派遣制度などもなく、従業員はみんな正社員でしたから、学歴がなくとも、一生懸命コツコツと働けば、確実に収入が増える見通しが持てました。
助川:当時の世界、は社会主義と資本主義が対立し、両体制が競い合うという時代でした。しかし、資本主義の側も社会主義の良いところを取り入れて、経済格差が広がらないように工夫したのでしょうね。
中島:資本主義が発達すると貧富の差がますます広がる、というのが資本主義を批判する社会主義者の理屈でしたからね。しかし、公害問題などが生じたものの、その時期は「一億総中流」などと言われるほど、中間層が広がり経済格差の比較的少ない社会が実現した。
助川:かつて、ソ連のフルシチョフ首相が、「社会主義経済の平等主義のもとでは人々は労働意欲を無くしてしまう。人は儲けがないと働かない」と言ったことがありました。そういうところに社会主義経済の行き詰まりの原因がありったのでしょうね。中国では文化大革命派の四人組が失脚して改革派が権力を握った後、社会主義国でありながら、市場経済を導入する。そこでは資本主義の原理がまかり通り、個人が儲けたいだけ儲けることができる。そして中国は高度成長を成し遂げる。中国はしたたかな国だから、ソ連の失敗を反面教師にしたのでしょうね。
中島:私がヨーロッパに滞在していた1989年には、東欧革命の大波があり、東欧の社会主義体制は次々と崩壊して行きます。
11月にベルリンの壁を壊した時の人々の歓喜の表情、12月にウィーンのシェーンブルン宮殿を訪れた時、社会主義体制から解放されたチェコ・スロバキアから旅行者が大挙して押しかけて来ていましたが、その人達の明るくて生き生きした表情に接し、ソ連の勢力下におかれた社会主義体制は、東欧の人々が望んだものではなかった、ということを改めて感じました。東欧の人達が社会主義を崩壊させ、民主化に向かった要因は、単に経済問題だけではなかったと思います。
助川:もちろんそうでしょう。ソ連の支配下では、民族も個人も自由を手にすることが出来なかったのだから。
しかし、今ではベトナムなど中国の後に続く社会主義国も、中国の改革開放路線を見倣い、市場経済を取り入れていますね。いまや、世界が資本主義の競争原理によって席捲されている。この原理のもとでは経済力のある者だけが勝利者となる。このあたりに現代という時代の大きな問題があるような気がします。
日本音楽舞踊会議と季刊誌『音楽の世界』について
中島:このあたりで、音舞会と『音楽の世界』の話題に移します。音舞会は60年の安保闘争に参加した、音楽家、舞踊家が主体となって62年に創立した会で、月刊『音楽の世界』の創刊もその頃です。私は安保闘争を経験していますが、私が入会したのは1987年のことで、入会してすぐ編集スタッフに加わりました。その頃は、私より一世代年長の矢澤、石野、寺原さんが健在でそれと助川さんを加えた先輩たちに囲まれていた訳ですが、みなさん、思想も性格も異なっていたものの、出版資本に頼らず、自分たちが自由に意見を発表出来る場を持とうという共通の理念と目的を持ち、私もその理念に感銘し、編集を手伝うようになりました。ところで、助川さんの入会は1975年ですか?
助川:いや、私は創立当時に一度入会しました。しかし、あまり政治的なことばかりやっているから嫌になって退会したのです。その頃、小宮多美江さん(当時の『音楽の世界』編集長)に「『音楽の世界』という雑誌は政治主導があまりに露骨で賛成できないという手紙を出しました。小宮さんから返事の葉書を頂き、「それはよくないことなので、反省、注意します」という趣旨の返信でした。わたしは退会した後、70年代(1975年)になって入り直したのです。その頃、雑誌「音楽芸樹」などを中心に、軽薄な「前衛音楽」をジャーナリズムが煽る時代で、どこかに反論を書く場がないかと模索したところ『音楽の世界』の存在を思い出しましたのです。それが再入会の動機です。ところがその先があるのです。当時『音楽の世界』では、民族派、保守派の音楽を持ち上げ、前衛派を締め出そうとしていました。私は編集部に入り、そういうあり方に反対しました。「それではもう一つくだらぬ党派が増えるだけである。大事なことは、党派を超えて、良い音楽かそうでない音楽を見分けることだ。前衛的な音楽でも良いものは良いはずだ」と。ところがそういう主張が小宮さんたちとの対立を生み、亀裂が決定的になりました。しかし、私はいまでも自分の主張が正しかったと信じています。
中島:そうですね。党派的に偏って、作品の評価が歪んでしまうのは好ましくありませんね。それでは、特定の政治勢力の支配下におかれず、自由かつ公平な立場で言論活動を展開して行くことを是とする『音楽の世界』の基本精神にも反します。
助川:西洋の音楽界は長い伝統があり、党派を超えて良いものは良いと評価する成熟した土壌がある。日本は伝統が浅いため実体がないのに、新左翼の人達のように理念だけで争う。エスカレートすると、内ゲバになってしまう。不毛です。
中島:『音楽の世界』は助川さんたちが築いてきた基本理念を貫きながら、商業主義に陥らず、時代の流行に流されず、ずっと続いて来たわけですが、21世紀に入り、インターネットが普及し始めた頃、助川さんご自身から「歴史的にみてこの雑誌の役割は終わったのではないか」と継続に対する消極的な発言が出されましたね。その発言に対して新しく編集長に就任した野口剛夫氏が大反発し、より低コストで雑誌の発行を継続出来る現在のシステムを提案し、月刊体制を維持したわけです。その後、野口氏がリタイアすることになり、思いがけず私が編集長に任ぜられ5年経ちました。私も少々疲れましたが、季刊に移行する4月で辞任することになりました。
ところで、これからはインターネットを中心としたデジタル情報の世界がより発展的に展開されて行くと思いますが、そういう中で『音楽の世界』などの紙メディアはどうあるべきと思われますか。
助川:人力車が自動車にとって替られたように、より便利なものが現われれば、多くの人々がそちらを活用するのは当然であり止められない。ただ、長大な文章をネットで読むのはやはり苦痛です。長い文章をじっくり読むには、やはり印刷物の方がいいですね。
中島:あるサイトの運営者が、「今はまだ、インターネットのメディアは紙メディアの補完的な役割にすぎないが、近未来において、紙媒体がネットメディアの補完的な役割に転じる可能性がある。」と述べています。ネットの世界は誰でも情報を発信出来る平等で公平な世界ですが、それだけに玉石混淆が著しく、読むに堪えないものも多いという気がします。しかし、ネットの世界と連携したり、競ったりしながら、上手にネットと共存して図って行く道を探さないと、紙メディアの存続は難しくなるかもしれないと思っています。
助川:紙メディアを媒体にした本や、雑誌の出版量は今後減って行くでしょうね。そうかといって、それが消滅することはないでしょうが。
中島:じっくり読むことでその価値が判る、よい活字文化は、やはり頑張って残して行く必要がありますね。
助川:ところでこれは、『音楽の世界』を存続させるための提案ですが、無名の人の文でもよいものは掲載するという姿勢は貫いてよいと思います。しかし、時には著名で有力な人の文の掲載も必要ですね。
中島:それはそうですね。そのことについては、4月以降編集長に返り咲かれる助川さんの手腕に期待したいと思います。
音楽で何を伝えたいか、何が伝えられるか
中島:遅くなりましたが、一番大切なテーマに入ります。
助川:資本主義について話したとき、少し触れましたが、資本主義は厳しい競争社会を作り出す。音楽界もそういう影響を受け、コンクールで優勝した勝利者だけが脚光を浴び、音楽界で地位を占めるようになる。そういう人達は、敗者の苦しみ、悲しみを知らない。敗者の悲しみを伝えるような音楽、演奏がめっきり減ったように思います。昔はカザルス、ティボーのような大家の演奏からも、悲しみをもつ人の心を慰める音楽が聴けた。それは大衆音楽の世界も同じで、古賀政男の音楽からは敗者の悲しみが伝わる歌が沢山聴けるし、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」からも、地方出身の敗者の悲しみが痛いように伝わって来ます。しかし、最近は演歌も、ポップスも、人の心をうつ敗者の歌が少なくなって来た。最近の紅白歌合戦では、若い子が飛んだり跳ねたりするパフォーマンスが目立つが、それは歌だけで人の心を捉えることが出来なくなって来たからでしょう。
中島:根本原因が資本主義にあるのか、またコンクールの勝利者だからといって人の悲しみが判らないとは言えないのではないかという疑問が残りますが、総体的には私も似た受け止め方をしています。今の世の中は〈成果主義〉という強迫観念に蝕まれています。それは企業の営業マンだけでなく、科学や、芸術の世界の人間もそうだと思います。〈成果主義〉が蔓延る中で、大切なものを見失っているような気がします。人々このような時代だからこそ、孤独、悩み、悲しみといった心の傷を抱えていると思いますが、そういう人の心に染みこみ、癒やす力を、音楽が失いかけているのかもしれません。
助川:シューベルトの第9交響曲の第2楽章、オーボエの主題が奏される有名な曲ですが、主題が再帰する前に最弱奏が続く部分があるでしょう。フルトベングラーなどの演奏では、そこで人は生きながら死ぬと言う。恍惚と陶酔ですね。ところが最近の指揮者は馬鹿だから死なない。今は演奏家も音楽に深く陶酔する感情が失われている。もっとも今の人でも判る人は判るでしょうが。
中島:ところで、今の時代における音楽創造の可能性について、のようにお考えですか。20世紀の後半は、表現より、作曲手法の方に重点がおかれたような気がします。しかし、私は作曲手法とは本来、音楽表現をもたらすための手段だと思うんですよ。
助川:人が用いていない新しい手法ということを優先すれば、音楽の可能性はどんどん狭まって財産を喰い、やがて財産を喰いつぶしてしまいます。自分が表現したい世界をどのような手法を用いて実現するかがもっとも大切なことだし、そこで表現されたものこそ、自分の音楽であり個性であると考えれば、音楽創造の可能性は、まだ無限に残されていると思います。
中島:そうですね。私も心の中には、孤独とか、親しい人の死に接して受けた悲しみとか、祈りの感情とかが蓄積されています。編集長を退き少し余裕が出てきたところで、心の中に溜まったものを表現することで吐き出しておきたいという気持ちが強くあります。それは、音楽だけの場合もあるし、言葉や、演技まで取り込む場合もあります。とにかく既成の様式には囚われず、自分が表現したい世界を描いてみたいと願っています。
助川:表現の方向は人によって様々でしょうが、悲しみをもたない音楽なんてつまらないですね。
後に続く人々に伝えたいもの、残しておきたいもの
中島:この対談もいよいよ最後の詰めに入ります。後に続く人達に伝えておきたいことはありますか。
助川:私が若い頃は、アメリカの資本主義はやがて崩壊する、などといわれたことがありましたが、ソ連の社会主義体制が解体するとは、まったく予想出来なかった。ベルグソンが言うように、「人には未来が判らない」ということを痛感します。人は未来については一秒先のことさえ判らない。音楽の演奏だって、一秒先に大きなミスを犯すかもしれない。一瞬先が判らないのは歴史も音楽も同じです。それでも人間は未来を知りたいと願う。それは人間がもつ根源的な欲求でしょう。
中島:私も未来を見通すことはとても難しいと思います。また人間は、過ちを犯す生き物だと思っています。しかし過ちを反省し、検証することで、朧気ながらでも進むべき道が見えてくるのではないかと考えています。そして、もし進んだ道が、岩壁で遮られていたら、また道を探し直せばいいのです。私の座右の銘はゲーテの「人間は努力する限り迷うものだ」という言葉です。人は努力しても、迷ったり、間違えたりするけれど、そういう蓄積が自分に何かを与えてくれると信じたいです。
助川:先ほど私は「未来は判らない」と云ったけれど、若い人達には、時代に流されるだけではなく、その時代に欠けたものを見抜く力を養って欲しい。
中島:そして欠けたものを見つけたら、忍耐強くそれを満たす努力をすることでしょうね。
助川:私たちの時代も音楽家として生きることは大変だったが、商業主義が蔓延する今の世の中では、音楽の仕事を、糧を得るための職業として確立させることはとても難しいようですね。
中島:そうです。邦楽を含め、芸術音楽のジャンルで活動する若い音楽たちにとって、芸術活動と生活を両立させることは、かなり難しいことと思います。
助川:それでも音楽をやる人間はそれほど減らない。
中島:それは、音楽が人間にとって必要不可欠なものだからでしょう。
助川:日本音楽舞踊会議、そして季刊誌『音楽の世界』が、我々の世代がいなくなった後も存続するかどうかは判らない。でも、若い人達が、自分の音楽活動を続け、それをもって世の中に訴え続けてくれることは、信じたいと思っています。
中島:私も同感です。今日は、ありがとうございました。
(2015年3月19日 高田馬場 日本音楽舞踊会議事務所にて収録。)
(この記事は、季刊『音楽の世界』2015年春号に掲載されたものです)
※:『音楽の世界』2015年春号は私が編集発行した最後の号です。
私の後のは助川敏弥氏に編集長として返り咲いていただき、月刊から季刊に移行した『音楽の世界』において手腕を発揮されることを期待していたのですが、
残念なことに、助川氏はその年の9月26日お亡くなりになりました。。
この記事の掲載については、助川氏のご遺族の承諾をえて掲載に踏み切りました。
助川氏は、日本音楽舞踊会議にとっても、私にとってもとても大切な方でした。
残念ながら、対談当日は写真を撮影しませんでしたが、その一年前の会合の際、撮影した写真がありましたので、それを掲載させてもらいます。