特集:西洋近代史と現代との接点(1)
日本史とその背後にある西洋近代史について

                                                                   作曲 中島 洋一

                                                              
〈まえがき〉
 日本音楽舞踊会議では、『近代西洋史と音楽家たち』という文化シンポジウムを継続中である。ここで称する近代という時代区分は、フランス革命が勃発した18世紀末から第一次世界大戦に突入した1914年までをさす。この時代は西洋音楽史上ではロマン主義を中心とした時代であり、今日のクラシック・コンサートにおいて演奏される頻度が高い作品を生み出した作曲家を多く輩出した時代でもある。シンポジウムの目的の一つは、音楽家、音楽愛好者の人たちに、それらの音楽作品を生み出した時代の歴史的、文化的背景を知ることで、その時代に活躍した音楽家と生み出された作品について、より興味を抱き、理解を深めてもらうことであるが、もう一つは近い過去を洞察する作業を通して、今を生きる我々にとって、ヒントとなるものを探すことにある。
 近世の時代まで、西洋と東洋(日本、中国など)は貿易を通しての交流があったとはいえ、概ねお互いに独自の歴史を刻んで来た。しかし、この時代に入ると西洋と東洋は交差し、お互いに強く関わりあうようになる。
 我々が企画している文化シンポジウムでは、次回はハプスブルク帝国を中心とした19世紀後半から帝国が終焉する20世紀初頭までをとり上げる予定だが、この時代になると日本も世界史に登場してくる。
 なお、次回の文化シンポジウムにおいて、メインパネラーをお願いしている小宮正安氏に今回は論壇の執筆を依頼したが、その論壇の文から、P.21に掲載した助川敏弥氏の「おどろきのスコットランド独立未遂」まで、特集に関連する文として範囲を広げて読んでいただけると、より興味が増すのではないかと考える。
 なお、今回の私は、西洋近代と日本史とのつながりについて書かせてもらうこととした。

鉄砲の伝来

 日本人は歴史時代のはじめから中国、朝鮮とは深い関係をもち、特に中国からは文学、美術、音楽、医学から統治機構に至るまで広く影響を受けて来たが、西洋人、西洋文化と交わるようになったのは戦国時代の最中の16世紀以降からであろう。
1543年種子島西之浦湾に漂着した中国船に同乗していたポルトガル人から、島主の種子島恵時・時尭親子は1挺1000両という破格の価格で鉄砲を2挺購入し、刀鍛冶に命じて複製を製作させた。それが、種子島銃である。やがて、堺、国友などの地域を中心に鉄砲鍛冶の技術が伝わり発展し、品質の高い製品を量産することが可能となった。
 織田信長をはじめ、戦国に生きる大名たちが争って銃を買い求めたため、短期間で日本は世界最大の銃保有国となった。それは戦後、我が国の産業が急速な技術革新により、テレビ、自動車などの産業部門において世界一の輸出国となった事実と重ね合わせて見ると興味深い。
 鉄砲が伝来して間もなくの1549年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルにより布教が始まる。キリスト教の伝来である。そして、ポルトガル、スペインとの南蛮貿易が盛んになって行く。しかし、南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)との交流は、日本の国情、国際状況の変化などもあり、長くは続かなかった。

戦国時代の終焉と平和な時代の到来

 周知のように1600年の関ヶ原の戦い、1614〜1615年の大坂冬の陣、夏の陣を戦いに勝利した徳川家の政権が確立する。その後、1638年に九州地方で凄惨な結果を招いた島原の乱が起こるが、島原の乱鎮圧後は、大規模な一揆や戦(いくさ)は姿を消し、我が国は世界史上でも珍しい、長い平和の時代に入る。そして、あれほど盛んだった銃生産も制限されて行く。銃規制政策の裏には、もちろん殺傷力のある武器の使用を制限することで反乱を未然に防ごうという体制側の意図があったが、それだけなく、支配者側、被支配者側ともに、大量殺戮につながる銃を武器として乱用することはだけは避けたいという共通の想いがあったからではなかろうか。島原の乱以降、百姓一揆が起こった際、諸藩は幕府の許可なしに、農民達に向かって銃で水平射撃を行うことが禁じられる。また民衆に対しても、人を殺すための武器としてではなく、猟を行うための銃の使用は許可している。
 また、島原の乱以降、幕府は宗門改(しゅうもんあらため)役を設置し、キリスト教徒を厳しく取り締まる目的で各藩に宗門改帳の作成を命じた。それはやがて宗門人別改帳として引き継がれて行くが、18世紀頃になると宗派調査の目的は薄れ、戸籍原本のようなものに性格が変わって行く。
 そして200年以上平和が続いた江戸時代に、文学、演劇、音楽、美術、料理など様々な分野で町人文化が花を開く。江戸の末期の識字率は60%を越え、この数字は西洋先進国でも例をみないほどで、町人文化は成熟の時を迎える。
 では、黒船のような外圧がなかったなら、江戸時代はもっとずっと長く続いただろうか。この予測については様々な見解があろうが、私は長く続いたとは思わない。
 これは私の主観だが、江戸の町人文化は、19世紀前半のウィーンにおけるメッテルニヒ体制下に花開いたビーダーマイヤー文化と、どこか似ているように思える。1848年の革命でメッテルニヒは失脚し、新しい時代が訪れ、ビーダーマイヤー文化の時代も終焉する。
 また、江戸時代の社会は、江戸の町人たちにとって、それなりに暮らしやすかったかもしれないが、藩によって差はあるものの各地で農村の疲弊は進んでいた。やはり熟れ過ぎた果実が落下するように、江戸時代の末期には時代が変わる兆しが見え始めていたのではなかろうか。

近代への移行を可能にした近世の蓄積

 1853年の黒船来航は新時代への突入のきっかけとなるエポックメーキングな事件となり、激動の時代を経て江戸時代は終わり、明治時代に突入する。
 尊王攘夷派、開国派など様々な主張が激しくぶつかりあう中で、後々の時代から顧みれば無謀と思えるような思想、行動も生まれたが、紆余曲折を経ながらも我が国が、大きな過ちをせずに近代を迎えることが出来たのは、過去にそれだけの文化的蓄積があったからではなかろうか。我が国は表向き鎖国という原則を掲げながらも、オランダとの交易という窓口を通して当時の西洋の事情にも通じていた識者が幕府内にも諸藩にも存在した。江戸中期には蘭学という学問分野が確立され、幕末の頃には洋学としてさらに発展して行く。国際社会の事情を知り、併せて自国の現実を鋭く洞察する知恵をもつ識者が少なからず存在したのだ。いまは名前を挙げないが、そのような人々がリーダー的役割を果たすことで、我が国は激動の時代を乗り越えることが出来たといえよう。また維新革命において中心的役割を演じたのは下級武士階級に属する志士たちだったが、これらの人々の多くが心に抱いていた「大義のためには自分を犠牲にすることも厭わぬ」という武士道精神も、維新革命を推進する上で、大きな力になったと考えているが、こういう精神は明治以降にまで、良い意味でも、悪い意味でも引き継がれて行く。

我が国の近代化と国際的背景

 19世紀後半の世界は、資本主義経済の発展のもと、西洋列強が政治、経済、軍事などあらゆる面で、国力増強を競った時代であった。弱い国は植民地化され強国の食い物にされかねない時代であったのだ。外国の事情を知る識者たちが黒船来航に危機感を募らせたのも、あの大国の清さえもが理不尽なアヘン戦争に敗れ、西洋列強の餌食になりかかっている現実を目のあたりにしたからであろう。開国はしたものの不平等条約の締結を余儀なくされた新政府の政治家達は、不平等条約の屈辱を払い、西洋列強に追いつくために「富国強兵」政策を打ち出す。国のあり方としては江戸時代の藩政治に代わり天皇を中心とした中央集権体制を築いて行く。天皇家は長い歴史を有するものの、日本史において、天皇が政治の中心にあったのは古代の一部の時代に限られている。しかし、諸藩の政治がバラバラに存在する謂わば地方分権国家だった日本を、中央集権国家として一つにまとめあげるためには、精神的に支柱となるものが必要であり、それが天皇だったと云えよう。
 日本人は持ち前の努力と消化力により短期間で国力増強に成功し、日清戦争、日露戦争に勝利し、やがて欧米列強と肩を並べる国力を持つようになる。欧米諸国の人々は日本の進出を黄禍(こうか)という差別的用語で表現し忌み嫌い、そして恐れた。

違った観点から眺めた近代化のもう一方の姿

 「富国強兵」、「和魂洋才」のスローガンは為政者が掲げたものだが、それだけが我が国の近代化のすべてではない。自由民権思想、社会主義思想、キリスト教精神など為政者側にとって必ずしも都合の良くない思想、精神文化も日本人の心に根付いて行く。西洋音楽の導入については、文部省が果たした役割も小さくはないが、人々が自ら望んで取り入れた部分も少なからずあったと思う。一方伝統音楽の分野の人々も西洋音楽を意識し出したと思えるふしがある。例えば、都節(みやこぶし)、田舎節などという楽語は明治以降に作られたものである。それらの造語は体系的な音楽理論をもたなかった伝統音楽側の研究者が、西洋の音楽理論の影響を受けて、伝統音楽の体系化を試みた証のように思える。また宮城道夫が開発した八十弦などから、私は西洋音楽に対する対抗意識を垣間見る気がする。
 また、日本人が西洋文化を吸収しようとした時代に、フェノロサなど仏教美術や浮世絵版画など、日本の伝統美術の価値を発見し、日本人に改めて自国の伝統文化の価値を見直すきっかけを与えた外国人も少なからず存在した。東洋人、西洋人を問わず、人は異文化に接することで刺激を受け、自分たちの文化をより豊かにして行くことが出来る。近代化には負の面だけでなく、多くの良い実りをもたらした良い面が沢山あったことも確かである。
 ところで「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」の言葉で有名な福沢諭吉著の「学問のすすめ」はなんと最終的には300万部を売り上げたという。
 これは、当時は勿論今の時代から見ても驚異的な数字である。前述したように維新革命は下級武士階級主導で成し遂げられたが、それを経済的に支えた商人が少なからず存在した。そういう人々の心のうちには、身分や階級を越えて自分の能力を発揮出来る四民平等の社会の実現という願望と期待が強くあったと思われる。それは「学問のすすめ」をむさぼり読んだ庶民や、自由民権運動を進めた人々の願いとも繋がるものがあるし、更に、フランス革命を皮切りに「自由と平等」の社会の実現に向けて立ち上がった西洋近代の市民たちの願いとも重なりあうのではなかろうか。

西洋近代の終焉と我が国における近代の継続

 国家主義そして民族自決の運動が高まるなか、サラエボ事件をキッカケとして第一次世界大戦(1914〜18)が起こる。この戦争は開戦前には誰もが予想できなかったような大量殺戮を伴う凄惨な戦いとなった。戦後、多くの政治家が紛争を武力で解決しようとすることにより悲惨な結果を招くことを認識し、国際連盟が設立され、パリ不戦条約が締結される。また長い歴史を誇ったハプスブルク帝国は崩壊し、芸術の分野でも、これまでに見られなかった新しい流れが台頭し、様変わりして行く。欧米諸国はこの戦争を境に、新しい時代に入った。
 一方我が国は連合国の一員として参戦したものの、戦争の痛手は殆ど受けず、列強が戦争のため退いた隙に、列強が支配していた市場に進出し漁夫の利を得て、経済は好景気に沸いた。もちろん我が国も第一次世界大戦終了後、国際連盟に参加し、不戦条約の締結にも加わっているが、第一次世界大戦からは殆ど何も学ばなかった。むしろ大国ロシアに奇跡的勝利(実は薄氷の勝利だったが)を収めた格好いい日露戦争のイメージから抜け出せなかったといえよう。
 しかし、我が国の好景気も長くは続かず、1829年に発生した世界大恐慌の煽りを受け、多くの企業が倒産し、街は失業者で溢れる。そういう窮状を背景に、軍部の圧力もあって、1932年に強引に満州国を設立する。そして国際社会からの厳しい批判にさらされ、国際連盟を脱退し、戦争に突入する。表向きは列強により植民地化を余儀なくされていたアジア民族を解放し、共に栄えて行く、大東亜共栄圏を築くとのスローガンを掲げてはいるが、実態は侵略戦争であった。
 私は昔、欧州に滞在していた頃、第二次世界大戦についてヨーロッパ人と意見交換したことがあった。彼は戦争の第一要因を、ドイツ人、日本人の民族性に求めた。「ドイツ人、日本人は純民族だからまとまって一方向に突っ走りやすい。純民族は怖いよ」ということだった。ヨーロッパ人は第二次世界大戦を民主主義国家が全体主義国家に勝利した戦いと捉えているようだ。私はそれを否定する訳ではないが、ジョン・W・ホールという歴史学者は、彼の著作で、「もしイギリスやフランスが当時の日本と同じ状況に追い込まれていたら、同じ事をやっただろう。」と書いている。遅れて近代化した日本、ドイツはイギリス、フランスのような植民地を持たず、世界大恐慌がもたらすダメージをより大きく受けたことは確かであろう。
 しかし、国家、国民が苦しい状況に追い込まれたからといえ、武力で自国の領土を広げようとするような行為は、国際世論が認めない時代になっていたのだ。

そして戦後を迎える。

 第二次世界大戦の終わりを敗戦国として迎えた時点で、日本の近代は終わり、現代に入る。敗戦を通して価値観が大転換する。戦後の時代は私の少年時代と重なるが、この時代に私は「二十四の瞳」、「原爆の子」など心に残る多くの反戦的映画を見せられた。当時の子供達は自由に映画館に行くことは許されず、先生に引率されて大挙して映画館に行ったのだった。当時の先生方の殆どは戦前、戦中の時代に青春期を迎えた人達であったが、戦争についてどのように考えていたのだろうか。当時の先生方は学力の面では今の先生方より劣っていたかもしれないが、これからの時代をこの子達に託そうと、熱意と使命感をもって教えていたような気がする。
 これ以降の時代については、この文章で述べる範囲を超えているので、ここでは触れない。しかし、戦後という時代が、その前の時代の反省の上に築かれたものだということを特に強調しておきたい。

時代の分岐点と人

 人は過ちを犯す生き物である。過ちとは戦争だけでない、地球温暖化、原子力発電所の事故など、すべてが人の犯した過ちである。しかし人は過ちから何かを学びとり、向かう方向を修正することで出来る生き物でもある。第一次大戦を経験し、その過ちに気づき方向転換した国々もあったが、我が国の被害は軽微だったためか、その戦争から教訓を得ることが出来ず、太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入した。
 今度は大きな痛手を負い、その反省に立って新しい時代に入った。歴史の各時代区分にはエポックメーキングな事件と重なっていることが多い。それは、その事件が人々の意識、価値観を変動させるキッカケとなるので、時代の分岐点として設定するのに相応しいからである。
 ところで、我々の若い頃、世界史の時代区分は、大体、第一次世界大戦までが近代、第一次大戦から第二次大戦までが現代前期、第二次大戦以降が現代後期として区切られていた。しかし、最近では、東欧革命が起こった1989年以降を現代、それ以前を近代とする区切り方が一般的になりつつあるそうである。
 なるほど、西洋史ならその方がよさそうな気がする。しかし、日本史の上ではその区切り方はしっくり来ない。1990年以降、バブルの崩壊、55体制崩壊などの事件はあったが、いずれもエポックメーキングというほどの事件ではないように思える。やはり、敗戦が決まった1945年8月15日を時代の分岐点とすべきであろう。

最後に!!
 素人がなぜ歴史のことについて書くのかと問われることがある。「人間は過ちを犯す生き物だが、また過ちに気づき修正することが出来る生き物である」と述べたように、過去を凝視することにより、これから進むべき方向に灯りを点すことが出来るかもしれないからである。歴史は歴史学の専門家のためだけにあるものではない。我々自身を知る手がかりとして、いつも手の届くところに置いておくべきものであろう。
                                                    (なかじま よういち:本誌編集長)
 
この文は『音楽の世界』2014年10月号掲載:特集〈西洋近代史と現代の接点について〉の1番目の文である 


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