特集:19世紀の社会と文化〜リストが活躍した時代〜 (2)
西洋近代史の中の音家たち
 作曲:中島 洋一


 かなり乱暴な試みですが、ベートーヴェン、ショパン、リスト、ワーグナーなどが芸術活動を繰り広げた西洋近代の歴史を、駆け足で辿ってみたいと思います。歴史学上、近代とは通常フランス革命から第1次世界大戦までの約120年の時代をさします。近代は1848年のフランス二月革命を挟んで、前期と後期に分けることが出来るでしょう。その時代を一口で表現すると、市民が文化の担い手になって行く時代ということではないかと思います。

1)フランス革命 (自由・エゴの解放・迫害)とナポレオンの台頭

 フランス革命というと「自由・平等・博愛」を表していると謂われている三色旗で知られていますが、私は「自由・エゴの解放・迫害」などとひどい表現をしてしまいました。18世紀になると啓蒙思想の影響もあり、高い教育を受けた有能かつ経済力を持つ市民層が育って行きます。また、医療や農業技術の発達により、農村の人口が増え、そういう人達が職を求めて大量に大都市に流れ込んで来て、パリなどの大都市は人口過剰になってしまいます。抑圧された苦しい生活の中、自己の権利に目覚めた民衆たちは、王侯・貴族・僧侶などの特権階級を相手に、自分達の権利拡充を求めて行きます。そしてついに、1789年にフランス革命が勃発します。しかし、民衆といっても、高い教育を受けた富裕な市民層と、その日のパンにもこと欠く下層民衆(プロレタリアート)では利害が異なります。1791年に一応最初の憲法が発布されたものの、その後は血で血を洗う凄まじい権力闘争に突入し、フランスは国力弱体化の危機に見舞われます。
そのような状況の下で救世主として現れたのがナポレオンです。ナポレオンはイタリアやスイスに共和国を建設するなど、武力で革命的政策を推進し、フランスの領土を広げて行きます。フランス以外のヨーロッパの市民たちも、最初の頃は、市民を封建権力から解放し、市民のための社会をもたらしてくれる英雄として、彼を歓迎したようです。ベートーヴェンなどもそうだったようで、交響曲第三番『英雄』は、もともとナポレオンを讃える曲として手がけられたものです。
ベートーヴェンの貴族嫌いは有名です。例えば、1812年にゲーテとベートーヴェンが連れだって散歩していた際、オーストリア皇后が貴族や延臣達を引き連れて現れると、詩人のゲーテは道を譲り丁寧に挨拶したのに対して、ベートーヴェンは「彼等の方が道を譲るべきなのです。断じて我々が譲ってはなりません。」と言って、貴族達の中に割り込み、流星のように突破した、というエピソードが残っています。(ロマンロラン著『ゲーテとベートーヴェン』)ベートーヴェンにとっては、必ずしも高邁な精神の所有者でもない貴族階級の人々が、自分より社会的地位が高く、自分を見下していることが、大いに不満だったようです。
ところで、ナポレオンに話を戻しますが、いくら革命を掲げて戦ったといっても、フランス以外の国民からみればナポレオンはやはり侵略者です。やがて各国が協力してナポレオンと敵対するようになります。チャイコフスキーの大序曲「1812年」で有名なロシア侵攻に失敗すると、ナポレオンは次第に勢いを失い、没落して行きます。

2)反動的時代の到来 〜それでも市民文化は育って行く〜

1814年にナポレオンが戦いに敗れ退位すると(ナポレオンは1915年にエルバを脱出し権力を再奪取し6月、ワーテルローの戦いに敗れたのが最後の戦いとなる)1814年9月〜1815年6月にかけてナポレオン戦争の戦後処理をめぐってウィーンで会議が開かれます。そこで主導権を握ったのが、ウィーンの老獪な政治家メッテルニヒでした。
 ウィーン会議以降、フランス革命以前の旧体制が復活します。そして政治的集会、発言などは弾圧され、「自由、権利、平等」などという言葉は、声を潜めてしか言えなくなりました。市民達は政治的発言を控え、ワルツを踊ったりして憂さ晴らしするようになりました。そういった空気の中で、ベートーヴェンの重厚で壮大な音楽は敬遠されるようになります。この頃、ウィーンで流行っていたのは、ロッシーニのオペラ・ブッファだったそうです。そのような状況だったので、ベートーヴェンは第九交響曲のウィーン初演を一度は諦め、ベルリンでの初演を計画したのですが、ベートーヴェンの新作を心待ちにしていた人々からの嘆願書があり、ウィーンで初演することを決意します。
 1827年3月26日、ベートーヴェンは没しますが、29日に行われた葬儀にはなんと2万人の参列者があったそうです。当時としては驚異的な人数です。シューベルトをはじめ、ウィーンの音楽家の殆どが参列したそうですが、参列者の多くは一般市民だったことでしょう。「ベートーヴェン先生は、音楽を通して我々に勇気と慰めを与えてくれた。みんなで天国に送ってやろうよ。」参列した市民達には、そのような想いがあったのではなかろうかと想像しております。
 ベートーヴェンのような強烈な自由主義者にとって、メッテルニヒは不倶載天の敵だったことでしょうが、政治的自由が封じられた彼の統治時代においても、市民文化は確実に育って行きます。特筆すべきはメッテルニヒの巧みな外交政策もあって、この時代には大国間の戦争が起こらなかったことです。そういう中で、生活に余裕を持ち始めた上層市民達は、つつましやかながらも、好みの調度品を揃えたり、音楽サロンなどを開き、自らも音楽を演奏して楽しんだりしたようです。シューベルトなどは、子供の頃読んだ教科書では著しく貧乏だったように書かれていますが、実際はそれほどでもなく、自分の音楽を理解する友人達にも恵まれ、一緒に美味しい物を食べたり、音楽を奏でたり、文学について語り合ったり、それなりに楽しい時間を過ごしていたようです。
 しかし、市民達は、言論や行動の自由が認められない体制の下で、心のどこかに胸がつかえるような想いを抱いていたのではないかと想像します。

3)新しい時代に向かって

 1789年のフランス革命により自由を知った人々が、いつまでも反動的体制を受け入れ続ける筈はありません。1830年7月にはフランスで革命が起こり、3日間のパリ市街戦の末、ブルボン王政が崩壊し、ルイ・フィリップを王とした立憲君主制のもと、ブルジョワジーの権利が大幅に認められた新しい体制がスタートします。ベルリオーズ(1803-1869)は多感な青年時代に7月革命を体験しており、1837年にはフランス政府から委嘱を受け、7月革命の犠牲者のために、「レクイエム」を作曲しています。また、1830年にはポーランドでもロシアの支配に不満を抱いた市民が蜂起し、国民政府を樹立しますが、翌年鎮圧され、失敗に終わります。祖国の悲しい現実が、ショパンの内面に陰を落とし、創作に影響を与えたことは間違いないことと思います。
 そして、ついに1848年2月、今度は労働者階級が蜂起し、フランス2月革命が勃発します。革命は鎮圧されますが、それはヨーロッパの各地に飛び火し、3月13日にはウィーンで、18日はベルリンで革命が起こり、多くの国々、そして民族に広がって行きます。ウィーンで革命が起きたことで、メッテルニヒは失脚し、一時イギリスに亡命します。また、その年の2月21日 には、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表しています。またショパンは、翌年の1849年に没しています。
 これらの革命の波は音楽家たちにも少なからぬ影響を与えたようです。ワーグナーは1849年、ドレスデンで起こったドイツ3月革命の革命運動に参加し、またマルクスの友人である社会主義者のゲオルク・ヘルヴェークとも親交を結んだようです。しかし、革命は失敗し、ワーグナーは指名手配され、リストを頼ってスイスに亡命します。しかし、ワーグナーが一貫性のある革命思想を抱いていたとは到底思えません。彼が、後にバイエルン国王、ルートヴィヒ2世の庇護を受け、自分のためにバイロイト祝祭劇場を作らせ、自分の芸術を完成させて行ったことは周知の通りです。
 1848年の革命は一時的には失敗しますが、国家主義、民族主義、社会主義などの思想を育み、19世紀後半から20世紀に引き継がれて行きます。

4)個の解放がもたらしたもの

近代前期は、産業革命の時代です。そして、この時代は新しい楽器が発明されたり、従来からある楽器が大幅に改良された時代でもありました。1828年、ウィーンで創業されたベーゼンドルファー社のピアノは、リストとともに発展して行ったようなものです。ベーム式のキーシステムは、木管楽器の演奏能力を大幅に拡大し、バルブを伴った金管楽器の出現は、それまでは困難だった半音階的動きを容易にしました。
また、多くの市民が音楽を楽しむようになったことで、広いコンサートホールを必要とするようになり、管弦楽の楽器編成も規模が大きくなって行きます。
技術革新が音楽的表現力の拡大に貢献した部分も大きく、ピアノの発達は、リストのような偉大なヴィルトゥオーソを育んだともいえましょう。
そのような技術革新をもたらした背景には、自由、平等の理念を拠り所にした、個の解放があったと思います。近代の政治改革を経て私的所有権の保証、労働の自由などの権利を獲得した市民達は、新しい技術を開発し、生産性を上げ、お金を沢山儲けることが出来るようになりました。一方、生産を増やすためには、労働者を雇わなければなりません。その時代には、ろくな教育も受けられず生きるのがやっとといった貧しい人達が大勢存在しました。そういう人達を安い賃金で働かせることで、更なるお金儲けが可能になったのです。しかし、そこからは俗悪な物質主義も生れました。そして多くの芸術家たちは、俗悪な物質主義に反発し、自分の理想を追い求めます。この時代はロマン主義芸術を生みますが、強引に定義すると、ロマン主義精神とは、現実からの逃避ではなく、現実に対して闘いを挑む精神ではないかと私は考えています。それは、あるときは日常性を越えた幻想の世界へ潜り込み、あるときには精神の自由を求めての闘いとなります。ロマン主義はやがてリアリズムに引き継がれます。ロマン主義とリアリズムでは、理念的に正反対で継続性がないように見えますが、現実社会の矛盾を暴こうとするリアリズム芸術も、現実に対して闘いを挑むというあり方において、繋がっているのです。
 では音楽史上において、ロマン主義の扉を大きく開いた音楽家は誰でしょうか。それはやはりベートーヴェンでしょう。ベートーヴェンは、ロマン派の作品にときおりみられる無秩序で構造性の希薄な音楽を嫌いましたが、彼の作曲形式上の発展拡大は、彼の音楽表現の発展拡大と密接に結びついています。ベートーヴェンこそ、自由を求め、そして自己の芸術表現を求めて、一生闘い続けた音楽家であり、ロマン主義音楽の扉を大きく開いた人でしょう。
 また、この時代になると、才能を持ちながらも、その時代の人々になかなか受け入れられず、苦しい生活を強いられる若い作曲家たちが多く現れます。そういう人たちを積極的に支援したのが、19世紀音楽界の帝王:フランツ・リストでした。後に大家になった作曲家たちが若い頃にリストに支援を求めて書いた手紙が、いまでも残されています。

5)1848年以降の社会と音楽家

 フランスでは1848年、ナポレオンの甥ルイ・ナポレオンが大統領に選ばれ1852年には皇帝の座につきますが、71年1月には普仏戦争で敗れ失脚し、帝政は終わりを告げます。同年3月26日にはパリで市議会選挙が行われ、28日にはパリ・コミューン(自由都市パリ)が宣言されます。75年には第三共和制憲法が設定され、本格的な共和制の時代に入って行きます。
 オーストリアでは、1848年3月ハプスブルク統治下にあったミラノが蜂起します。しかし、8月にはヨハン・シュトラウス一世が作曲した「ラデツキー行進曲」で有名なラデツキー将軍によって鎮圧されてしまいます。それから約10年後の1859年に、ハプスブルク帝国はフランスの援助を受けたサルデーニャ王国と戦い敗れ、ミラノなどを失います。1861年にはサルデーニャ王国のエマヌエーレ2世と首相のカヴァールの働きによってイタリア王国が成立します。歌劇作家ヴェルディは(Verdi)苗字の頭文字が、[Vittorio Emannele Re D'Itaria](サルディニア王ヴィットリオ・エマヌエーレを讃えて)となることもあり、イタリア統一運動の象徴的存在になり、歌劇『ナブッコ』の合唱曲「行け、わが思いよ、金色の翼にのって」は、当時イタリア中で愛唱されたそうです。つまり、ハプスブルク帝国とヴェルディは敵同士だったことになります。ヴェルディはその功績が認められ、国会議員に選出されます。
 民族融和を掲げ、多民族をまとめあげて来たハプスブルク帝国でしたが、自治権を要求する民族主義運動を抑え続けることが出来なくなり、1867年にはハンガリア人の自治権を認めたオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。
 また1871年にはプロイセン国王をドイツ皇帝に仰ぎ、ドイツ帝国が成立し、バイエルン王国は王国の名前は残したもののドイツ帝国の1領邦になります。それが直接の原因ではないでしょうが、バイエルン国王ルートヴィヒ2世は、国政を顧みず、ワーグナーのバイロイト祝祭劇場や、度重なる築城に膨大な国費をつぎ込み、国家財政が危機に瀕します。そういうことからルートヴィヒ2世は信を失い、廃位となった後、謎の死を遂げます。
 この時代は、国家主義、民族主義が強まった時代で、チェコのスメタナやドヴォルザーク、グリンカ、ロシア五人組など国民楽派と云われる人々が活躍します。しかし民族主義の高まりは西・中央ヨーロッパの国々も例外ではありません。フランスにおけるグレゴリオ聖歌の再評価(フォーレ、ドビュシーなどの作曲家は好んで自作品に教会旋法を導入している)、ゲルマン、ドイツの伝説を題材にしたワーグナーの楽劇なども、そのような傾向と関連性があると思います。
 ところで1861年のイタリア統一、1871年のドイツ帝国成立の歴史年表の間に1868年の日本の明治維新が挟まります。この頃は国家主義、民族主義が高まりをみせた時代で、それは自国の国力と権益を拡張しようという動きと連動しています。つまり弱い国は、下手をすると大国の食い物にされかねない状況にあったのです。そういう外圧の中で、日本は開国し近代国家の仲間入りをします。そして、欧米諸国の予想に反し、日本は急速に近代化し、欧米の列強に追いついて行きます。欧米人を驚かせた我が国の急速な近代化をもたらした要因の一つは、江戸時代の町人文化の蓄積にあったと思います。読み書きが多くの民衆の間に浸透し19世紀中頃の日本人の識字率は、西洋諸国のそれよりかなり高かったほどなのです。
19世紀後半は、市民社会がさらに成熟して行った時代です。成人男性のすべてが参加出来る普通選挙法が徐々に浸透して行き、労働者階級にも参政権が与えられ、19世紀前半に比べれば、労働者階級の生活も改善されて行きます。
その一方、ブルジョアジーもより文化的に成熟し、チャイコフスキーのパトロンとなったメック夫人や、東洋美術館を設立したエミール・ギメ(1836〜1918)のような人物も現れます。また、交通機関の発達で、世界は次第に狭くなって行き、非西洋圏の芸術作品や工芸品などと比較的容易に接することが出来るようになります。1851年に開催されたロンドン万国博覧会を皮切りに、世界中の民芸品や物品を集めた博覧会が開かれるようになります。そういう中で日本の浮世絵や、伝統工芸品などが芸術家を含む欧米の人々の関心をかうようになって行きます。世界は狭くなり、よりグローバル化して行きますが、その一方、国家主義、民族主義的傾向が強まり、やがてそれが火種となり、大きな戦争(第一次世界大戦)に突入します。
これで今回は筆をおきますが、西洋近代史や文化史について造詣の深い方々からみれば、私の文は浅く、そして軽く感じられたかもしれません。しかし、音楽家に限らず、人間は常にその時代と向かい合って生きており、それは「いま」の時代を生きる我々も同じでしょう。そして「いま」という時代は、過去からの連なりがあって存在するものなのです。今まで歴史、文化史にそれほど関心を持たれなかった方々も、この文を読むことで、過去からの連なりをあらためて見直すキッカケとしていただければ、幸いに存じます。

               (なかじま よういち 本誌 編集長)
  ※小宮正安氏執筆 特集:19世紀の社会と文化〜リストが活躍した時代〜 (1) リストとその時代  〜華麗なる遍歴の裏側に〜 と対となっている文                           


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