AID (Artificial Insemination by Donor:非配偶者間人工授精)という言葉をご存知だろうか。結婚しても夫の精子に異常があり子供を産むことが出来ず、夫以外の男性から精子の提供を受け、人工授精により子供を授かることだそうである。人工授精でもAIH(Artificial
Insemination by Husband: 配偶者間人工授精)の場合、生まれた子供は、両親から遺伝子を引き継ぐので、結果的には通常の妊娠、出産に至るケースと変わりがない。しかし、AIDによって生まれた子供は、母親の遺伝子を引き継ぐが、男性側の遺伝子は、精子を提供した人のもので、父親の遺伝子は引き継いでいない。
結婚しても、子供が出来ず、どうしても子供が欲しいと悩んでいる夫婦が少なくないようである。AIDもその解決法の一つとして、我が国では1948年に慶應大学病院で始まり、これまでに数千〜1万人以上生まれたとみられている。(ウィキペディアより転用)
ところが、精子の提供者は秘密にされており、提供を受けた母親にも、そして、それを承諾した父親にも知らされていないらしい。子供は成長すれば、血液型などから、自分が片親の血しか受け継いでいない事実に、気づくであろう。ちょっと前にテレビのドキュメンタリー番組で、AIDで生まれ成長して医師になった青年が、血縁上の父親を探し求めて悩む姿が放映されていた。
精子の提供者を秘密にするのには、様々な理由があろう。英国では、最近の法改正で精子提供者の匿名性が認められなくなって以降、提供者の数が急減したなどのニュースもある。しかし、前述の医師のように自分のアイデンティティーを確認するために、自分の血縁上の父親を確かめたいと願う気持ちは、理解出来る。
人は両親から半分ずつ遺伝子を引き継ぎ生まれるが、遺伝子がその人間の性格を決定づけている訳ではない。ご存知のように一卵性双生児の場合、基本的には同じ遺伝子情報を持って生まれて来る。ところが、同じ両親のもと、同じ家庭で育っても、成長するにつれて、性格に違いが出て来る。
大分前だが「遺伝子」をテーマにしたNHKの特集で、一卵性双生児として生まれた姉妹の成長記録が紹介されていた。青年期にさしかかると姉は司法官を目指すようになる。妹の方は幼いときから音楽に親しみ、チェリストを目指す。異なった進路を選んだことが、精神形成に影響を与えたためか、姉は理性が発達して行き、物事を分析的に捉えるようになって行く。一方音楽の道を歩んだ妹の方は、感性、情念が発達し、繊細で感じやすい心を持つようになる。その結果、外観は他人には見分けがつかないほど瓜二つなのだが、表情や仕草などに、ときおり僅かな違いが見られるようになって行く。
人は両親の血から、体質、素質など様々なものを受け継いでいることは確かであろう。しかし、人格は人生を歩む過程で徐々に形成されて行くものである。遺伝的に受け継いだ資質は、いわば原木のようなもので、その原木から何が彫り上がるかは、その後の育ち方にかかっているのだ。
人は、幼児期には、共に過ごす両親や兄弟、祖父母などの影響を強く受けるであろう。特に母親からの影響は大きい。母親は共に過ごす時間が長いだけでなく、自分を守ってくれる存在と感じているからである。もし、戦国時代の武将のように、実母ではなく、乳母に育てられたとしたら、乳母の影響をより強く受けることであろう。長ずると父親の影響を多く受けるようになる。父親は目標であり、相談相手であり、時には壁となる存在だからだ。そして、友人たちや、師から色々学び、さらに読書、芸術体験などを通して、古今東西の多くの先人達から様々な影響を受けて行く。
生物としての人の特徴は、なんであろうか。脳が大きく発達し、複雑な心を持ち、社会生活を営むことであろうか。しかし、心を持ち、社会生活を営むのは人だけの特徴ではなく、類人猿などもそうであろう。しかし、人は発達した文化を持ち、言葉、楽譜、絵、彫刻、そして今は映像、音などという形でそれを記録して蓄え、自分以外の多くの人間に伝える能力を持つ。同時代に生き接触した人間からだけではなく、読書をしたり、音楽を聴いたりすることで、先人たちの心に触れ、それを自分の心の糧として消化吸収して行くことが出来るのだ。
もし、進化を遺伝子の変化のみに求めるなら、短命で生殖サイクルが速い生物の方が有利である。しかし、人は霊長類の中でも、際立って長命であり、生殖のサイクルも速くない。人が長命なのは、医学の発達によるところが大きいが、それだけでなく、自分が蓄積した経験(文化)を後生に伝えるために次第に長命になったのではなかろうか。我々現生人類:ホモ・サピエンスの歴史はせいぜい20万年、文字が発明されてからでは、まだ5000年強しか経っていない。今から5000年前の人々のゲノム(全遺伝子情報)と我々のそれでは、殆ど変化していない筈である。しかし、人は短期間に大きな進化(進化と考えたい)を成し遂げた。それは、先人の知恵と経験がどんどん蓄積され、その上に今の我々の生活があるからである。
人は、遺伝子の他に、言葉や音楽などを通して心を伝えられる、心の遺伝子を持っているのだ。そして、心の遺伝子は強く太いものである。
「生みの親より育ての親」という諺があるが、子供が親の影響を強く受けるのは、必ずしも血のつながりだけではない。一緒に生活し、愛し合い、励まし合って行くことで、心の遺伝子が引き継がれているからであろう。
私は、どうしてもと本人が望むならば、AIDで生まれた子供に対して、事実をうち明けてやるべきではないかと考える。そして、「血は○○さんから分けてもらったのだ。しかし、お前は私にとってかけがえのない息子なのだよ。だって、お前は、私の心の遺伝子を受け継いでいるのだから」と堂々と言ってもらいたい。
(なかじま よういち 本誌編集長)
『音楽の世界』2011年2月号掲載