今さら隠し立てしてもしょうがないが、私は1941年11月19日生まれだから今月中に71回目の誕生日を迎えることになる。一昔前ならかなりの高齢者だが、私にはそうした自覚がなく、意識の中の自分は、依然として未熟な青年のままである。しかし、近頃になって、幼い頃の記憶がより鮮明に蘇って来ることがある。
ヒッチコックのテレビドラマで、病床にある老女が突然青春時代の事を想い出すというのがあった。その老女は記憶喪失症だったのである。ナースが医師に「記憶喪失症の患者さんは、死ぬ間際に突然昔の記憶が蘇ることがあると言いますが、そういうことでは?」と問う。青春時代の記憶が蘇った老女は自分の手が皺だらけなのに驚き、「私は一体どうしたの?」と呟き、心配した医師とナースが病室を訪れた時には、すでに息絶えていた。
私の場合は、急に幼い頃の記憶が蘇って来たわけではなく、少年時代からずっと忘れることがなかった幼児期の記憶が、長い年月を経た今になっても色褪せることなく、より鮮明に想い出されるということである。
医学的には、三歳以前の記憶は、幼児期を過ぎると失われてしまうのだそうである。ではいつ頃が大人になっても残る記憶が蓄積される時期なのであろうか。一般的にはこの時期を「もの心がつく」というようだ。それは人様々であろうが、私の場合、昭和20年3月8日に、下の下の弟が生まれた日が、その境界線であり、その日のことは鮮明に憶えているが、その日以前の事を想い出すことができない。その時、私は3歳3ヶ月と19日だった。
その年は希に見る豪雪の年だったようで、表通りに面した二階の部屋に私といた姉に友達が声をかけていたが、普段雪が踏み固められて低くなっている大通りでさえ、二階の高さに近づきそうな積雪があった。当時の出産は家で産婆さんにやってもらうことが普通だったようで、産婆さんに夕餉を振る舞ったため、産婆さんが持って来た焼きおにぎりが余り、子供達がお相伴にあずかった。焼きおにぎりの香ばしい香りと、中に細かく切った大根の味噌漬けが入っていたことを憶えている。すぐ眠ってしまったのだろうか、弟が生まれたことを知ったのは、翌日だったと思う。
時期は定かではないが、その年の初夏の頃だったと思う。母に連れられて空襲で焼ける前の長岡にあった父方の叔父の家と、母の実家を訪れた。叔父の書斎には、当時では比較的珍しい電蓄が置かれ、収納棚には1000枚くらいのレコード(SP)が収納されていると自慢していた。祖父が高給サラリーマンだった実母の家も、なかなか大きな家で、立派なオルガンが置かれ、当時はまだ女学生だったと思われる一番下の叔母に、何か弾いてくれとせがんだことを憶えている。その叔母も、今年85歳で亡くなり、8人もいた私の伯(叔)父、伯(叔)母たちは、全て鬼籍の人となった。
7月12日には、中風を患い、裏二階で寝たきりになっていた私の祖父が亡くなった。家の者が「おじいちゃんが死んだ」と言ったので、裏二階の部屋に上がってみると、祖母が祖父の遺体に手を合わせていた。記憶の中の祖父は寝たきりで、私が近寄ると、微笑んでくれた姿しか憶えていないが、私が生まれた時、祖父が大喜びし、私に名前を付けてくれたことは、後に耳にタコができるほど祖母から聞かされた。7月14日、15日は町の夏祭りがあり、多分葬儀の準備などは慌ただしかったことであろう。
そして、8月1日、深夜に長岡に大空襲があり、私の実家の塩沢からも、北の空が赤く染まるのが見えたという。もちろん幼い私は、その時刻には就眠しており、見ていない。しかし、翌日、叔父家族が空襲の難を逃れ、実家である我が家に身を寄せた。叔父は顔に、同い年の上の従姉妹は、手に火傷をしていたことを憶えている。その日から多分半年くらいの期間、叔父家族は我が家に疎開することになり、その時の懐かしい記憶も色々あるが、今回は割愛する。
その空襲で、叔父の家も、母の実家も全焼し、叔父が集めた膨大なレコードコレクションや、美術品も焼失した。商人で経済力があった叔父は、その後大きな家を再築した。しかし、祖父が病で倒れた母の実家は小さな家に変わっていた。母に連れられて幼い頃何度が訪れたが、私が小学生の頃、長男だった伯父(母の兄)が日光に転勤になり、伯父の家族と母方の祖母はそちらに引っ越した。
終戦の事はまったく記憶にない、というより三歳の私に戦争、終戦など、意味が分かる筈がなかった。玉音放送のことも、その時の家族の反応も後で聞いた話である。それでも、兵隊さんに逢ったら敬礼をするんだよと教えられ、敬礼の仕草を真似たりしていたのが、進駐軍に逢ったら「ハロー」と言うんだよ、に代わった記憶がある。
また、姉が戦後の昭和21年4月に小学校に入学した時、姉はまだ部分部分墨で塗りつぶされた教科書を使っていたのを憶えているし、「国民学校の一年生」という歌を歌っており、わたしも、マネして歌った記憶がある。変わり目の時期だったのであろう。私が入学した昭和23年には、教科書は戦後編集した新しいものに変わっていた。
3〜4歳だった当時の私には昭和20年が特別な年だったということなど、まったく判らなかった。ただ、小さい子供でも特別に感ずることがあると、生々しく憶えているものらしい。それほど数多くの記憶がある訳ではないが、他にも鮮明に憶えていることが色々ある。
私は、戦時中、そして終戦直後の記憶を持つ、最も若い世代に属する人間であろう。その世代も古稀を迎えた。しかし、幼い私のプライベートな記憶の中にさえ、時代を覗わせるものがあるように思う。些細なことでも、後の世に伝えておく意味があると考え、幼い頃の記憶を辿ってみた次第である。
(なかじま・よういち 本誌 編集長)
中島 洋一 『音楽の世界』2012年11月号掲載