何かと忙しい師走に原稿を引き受けてしまいましたが、よく考えてみるとこの文章は新年号に掲載されることになるようです。おそらく、編集長は年頭の巻頭論文ということで、現役の事務局長である私に原稿を依頼して来たのでしょう。本来なら、新年に相応しい、お目出度いことを書かなければならないのかもしれませんが、絵空事を書いてもしょうがないので、自然体で行こうと思います。
さて、私の郷里は、上越新幹線に乗るとすぐの、県境に近い新潟県の南部にあります。川端康成の小説『雪国』の舞台となった地域です。ですから、今では東京からそう遠くない地域にあるのですが、私が帰るのは年に1、2回といったところです。それでも、毎年欠かさず正月には郷里に帰ります。私は6人姉弟の長男です。長男といっても上に姉がいるので年の順でいうと二番目です。父母はもうとっくの昔に亡くなりましたが、それでも正月には郷里に集うのが昔から習わしになっており、6人全部は無理としても5人は集まります。しかも、それぞれがその家族をともなって来ますから、大変な人数になります。私はいまだ独身なので自分の家族は持っていませんが、正月の数日間は、家族の温もりというより喧噪といった方が近いかもしれませんが、そういうものを味わえる一時ではあります。
ところで「家族」ということで、ちょっと思い出したのはNHKで11月に放送された『R.P.G.(ロール・プレーイング・ゲーム)』というドラマです。
後藤真希が演ずる女子高校生一美の父親が刺殺死体で発見されます。刑事が父親のパソコンを調べると、そのデータから「お母さん」、「ミノル」、「カズミ」というハンドルネームの人達との交信記録が見つかります。父親は妻と一美で構成される実在の家族の他に、インターネット上に疑似家族を作り、家族ごっこをやっていたのです。妻と一美の様子から刑事は父親殺しが一美の犯行であることを確信するに至りますが、そのことには一切触れず、同僚の女性刑事と図って、疑似家族達を容疑者として取り調べ、その場に一美を立ち会わせるようにし向けます。
「カズミ」という一美と同じ名前で良い娘の役を演じていた女子大生、実の父に不満を抱き「ミノル」という名前で疑似家族に加わってた大学生、独身の会社員で、「お母さん」役を演じ、疑似家族とのつきあいの中で寂しさを紛らわしていた女性…。疑似家族をとり調べて行くうちに、一美の父親を含め、四人が実際に一度会っていたことが判り、またそのギクシャクした関係が浮かび上がって行きます。そして、一美をその取り調べに立ち会わせることにより、彼女の心の奥にある闇の世界、そして事件の真相が次第に明らかになって行きます。
父親のパソコンを盗み見し、疑似家族の存在に気づき「お父さん!カズミにはあんなに優しくしながら、なんで私には冷たいの?私はそんなにダメな娘なの?そんなに悪い娘なの?」と泣いてつぶやく一美、そしてボーイフレンドのことを認めてもらえず、異常に彼との関係を詮索する父に対して敵意を抱くようになる一美、そして彼女は、ある時、誤って父を殺してしまいます。
父親に対して強い愛情を持ち、甘えたいという願望を抱きながら、その気持ちを素直に表現出来ず、突っ張ってしまう一美、我が娘を強く愛おしみながら、やさしく接することが出来ず、自分の人生観や道徳律を強制する形でしか愛情を示せない不器用な父親。そしてその父親が実在の家族と巧くコミュニケーション出来ず、その寂しさを紛らわすためにネット上に疑似家族を作ったことをきっかけに、この家族は崩壊して行きます。
そしてこのドラマでは最後にドンデン返しがあります。実は、容疑者として取り調べられた疑似家族は本物ではなく、刑事と同僚の女性刑事の配下の警察官達が演じていたニセものだったのです。つまり、疑似の疑似家族だったのです。伊東四朗が演じていたその刑事は言います。「私には、最初から一美が父親殺しの真犯人ということは判っていた。われわれの仕事は証拠を集め真犯人を検挙することにある。しかし、それだけでは、この事件にとって本当の解決にはならない。どうしても真相を究めたかった」と。
養護施設に送られた一美は、次第に自分の心を取り戻して行き、二人の刑事達にも手紙をくれるようになります。一美に会いに行った二人の刑事は、「毎日、心の中でお父さんと向かい合って話し合い、いまではお父さんのことも少し理解できるようになった気がします」と語る一美を見て、安らいだ気持ちになります。しかし、まだ、父親が死の間際まで娘に容疑がかからぬよう庇い続けた事実は告げられません。回復途上にある彼女にとって、それを知ることは、あまりに衝撃的だからです....。
たかがドラマじゃないか、と言ってしまえばそれまでです。しかし、実際に犯罪に及ぶようなことはごく希れとしても、このドラマの家族のあり方に、現代の家族の「絆の脆さ、危さ」というものが典型的に示されているような気がしました。しかし、自分の家族を持たない私には、「現代の家族」について判ったように云々する資格がないのかもしれません。
それならば、もっと広げて、ドラマの家族の間でみられたような、利己的にすぎる愛情の持ち方、自分の気持ちを表現すること、相手の気持ちを察することが出来ないコミュニケーション上の不器用さ、といったものは、家族関係を越えたより広い人間関係においても、現代では、よく見れることかもしれません。例えば、『引きこもり』現象などが社会問題になっていることも、自分の心と外界との接点を上手に見つけられない人間が増えていることを示していると思います。
人の心は多くの場合、外に向いた面と、他人にはなかなか見えない内側の面との二重構造からなっています。鋭敏な感性の所有者である、芸術家などの人種では昔から特にそういう傾向が強かったと思います。太宰治、三島由紀夫といった人達には、そのような精神の二重性がより顕著に見られると思います。しかし、現代の社会においては、より多くの人間が、そのような傾向を強めてしまい、しかも外に向けた面で、上手に人間と接する能力を欠いてしまった分、内側の面に比重が傾き、孤独感を深めて行くことが多いのではないでしょうか。
いまの女子高生などを観察していると、ほとんどが超ミニスカートとルーズ・ソックス(最近はやや下火でしょうか)をはき、携帯電話を手に持っていじっています。みんなと同じにしていないと仲間外れにされてしまうという不安があるのでしょう。表面上はみんなでキャキャと騒ぎ、連帯感で満たされているように見えますが、やはり各々の子が心の底にそれぞれの悩みを抱いているのではないかと想像します。
正月早々、暗い話をするなとおっしゃるかもしれませんが、私は若い人を含め現代人が、他人から見えにくいところに自分の世界を持っているとしたら、それは特に嘆くべきことではないように思います。ただ、RPGの一美のように、「父親は自分を判ってくれない」というように被害者意識だけで凝り固まってしまうのではなく、「自分が理解されないと感じているのなら、相手もそう感じているのではないか。」と、相手の立場に立って思い考える、優しさと、心のゆとりが必要でしょうが。
現代という時代は、より多くの人々が孤独という心の病気に苛まれる時代かもしれません。しかし、見方を変えれば、現代人の心は、まだ心を病むだけの繊細さを残しているということでもあると思います。人は孤独に苛まれれば、より深い人間の絆を求めてさまようでしょう。芸術における創造行為だってそのような心のあり方と無関係ではない筈です。誰かが「人が環境問題について敏感であるうちは、極度の環境悪化は避けられる」と言っていましたが、人が心の痛みを感じられるうちは、人間の精神が死ぬことはない、とも言えるのではないでしょうか。
(なかじま・よういち 本会事務局長)
『音楽の世界』2004年1月号掲載