広い道の誘惑    作曲:中島 洋一

 
 記録を調べてみると、1972 年8 月22 日とあるので、40 年近く昔の事である。その頃の私は夏の休暇を利用して、毎年最低でも一週間程度は好きな山登りに費やすのが通例だった。目的地の多くは北、あるいは南アルプスだったが、まだ体力に自信があったので、山に入るまでのアプローチが長く、起伏に富んだ稜線をもち、体力を要する南アルプス南部の3000 メートル級の山々の頂きを辿る縦走山行に何度か挑戦した。その頃までに、南アルプスの主な山々の頂は殆ど踏破していたのだが、大物が一つ残っていた。南アルプスは地理上では赤石山脈と呼ばれているが、その名が付されている南アルプス第四位の高峰、赤石岳(3120m)である。
 赤石岳にはいずれも学生時代に三度挑戦して退けられていた。二度は夏に静岡県側から入山し、南の聖岳方面から縦走する予定だったが、悪天候が続き断念した。もう一度は初夏の5月に、長野県側の伊那大島から渋川を辿り広河原に入り、そこから南の赤石岳、北の荒川岳、悪沢岳を踏破する予定だったが、体調、残雪の状態などを配慮し、赤石岳山頂の踏破を諦め、荒川岳、悪沢岳のみを登り帰宅した。
 1972 年夏は、それまでと同じルートを辿るのではつまらないので、長野県南部の秘境遠山郷を流れる遠山川から入山することにした。このコースなら殆ど人と出会わない静かな山旅が期待出来ると考えたからである。飯田線の平岡駅から一時間余りバスに揺られ本谷口という所で下車したが、案の定、登山者は私と、同年配と思える男性の二人だけだった。曇天で時折小雨が混じるような天候であったが涼しく、快調に歩き、二時間余り行った北俣渡で聖岳、光岳方面に向かう本流添の道と分かれ、北へ大きく曲がり北俣沢を辿った。昔木材を運ぶトロッコが走っていたと思われる軌道がそのまま登山道として使われており、最初は歩きやすい道だったが、使われなくなった軌道は、道が崩れかけ、レールが浮き気味になっている個所も出てきた。曇ってはいたが霧で山腹が覆われるほどでの悪天候ではなかったし、道もほぼ平坦で楽な方だったが、変り映えのしない景色が続く長く退屈な渓谷沿い道で、一週間分の食料と寝具の入ったキスリングが重く肩に食い込むように感じられ、うんざりして来た頃、意外にも対岸へ渡るかなり立派な木橋が現れた。地図上でも、その日の目的地、大沢渡小屋(現大沢山荘)に近づくあたりで、道が対岸に渡るように描かれているが、まだ対岸に渡るには早すぎるし、こんな立派な橋の存在はガイドブックにも記されていない。また、地図上の地形とも異なるようだ。訝しく思ったが、欄干に置かれた手拭いを、山の関係者が「正しい道」を示す目印として置いたものと思い込み、迷ったすえ、橋を渡ることを決断し、橋を渡り対岸の針葉樹で覆われた山腹を縫う道を登り始めた。道は入山者の少ない山域のものとしては信じられないほどよく手入れされていたが、いくら登っても小屋は現れない。しばらくして、「やっぱり道が違っていたようだ」と気がついたが、分岐点まで戻り小屋を目指すには時間的に遅すぎると考え、道の傍らの樹木の下に平らな場所をみつけ、ツェルトと寝袋を使って野宿することにした。
 ところが、しばらくすると、雨が降り始め、やがてざあざあ降りになった。携帯ラジオを聞くと、この地域には大雨注意報が出されたということだ。あたりは森林で吸収できなくなった雨水が溢れて川のように流れ、身体がずぶ濡れになった。夏の終わりの季節で付近の標高も1500M 以下なので凍死の恐れは少なかったが、それでも眠らないように、夜通し携帯ラジオをかけっぱなしにして、「バカヤロー」、「タスケテクレ!」、「示道標をちゃんと整備しろ」などと、汚い言葉を叫び続けた。もちろん、こんな辺鄙な所で、大声を出しても誰も助けになど来てくれる筈がないし、示道標が整備されていないことも、あらかじめ判っていたことである。自分のふがいなさに腹が立ち、自分自身に対する侮蔑の情から叫び続けたのである。そのお陰で、眠ってしまうことはなく、夜が明けはじめ、あたりが白んで来て歩けるようになると、雨で濡れた寝具やキスリングを背負い分岐点に戻り、本来の道を歩き、朝8時頃小屋に着いた。
 小屋には昨日終点で一緒にバスを降りたもう一人の登山者が、囲炉裏で火を焚き、天候の回復を待って停滞していた。「あなたがどんどん行ってしまったので、先に小屋に到着していると思っていたが、姿が見えないのでどうしたのかと思った」と云うことだった。翌日の予定を訊かれ、「今日は一日休養して、明日は大沢岳の山頂を目指す」と答えると、「そんな状態でよく予定通り山旅が続けられますね」と半ばあきれ顔だったが、二人とも濡れた寝具類を火で乾かし、その日はゆっくり休んだ。
 翌24 日は良く晴れ渡った。私は彼が小屋を立ってから出発したが、一日休んだことで疲れもすっかりとれ、順調に大沢岳山頂(2819m)まで登り、宿泊地の百間洞山の家に辿り着き、25 日には念願の赤石岳の山頂を踏むことが出来た。その後、聖岳(3011m)から歩き慣れた聖沢コースを下り、無事に山行を終えた。
 登山の経験もそれなりに豊富で、地形、位置判断についてもそこそこの自負があったのだが、立派な橋と道に惑わされ、林業用の道に迷い込んでしまったのである。幸い?誰も救助に来てくれなかったお陰で、遭難事故の不名誉は免れたが、経験豊かな登山者にはありえないお粗末な判断ミスであった。ちなみに現在は、私が歩いた北俣沢沿いの道は廃道となり、私が迷い込んだ尾根の一角にある「しらびそ峠(1833m)」に立派なリゾート施設が完成し、そこを経由して大沢岳に登るルートが一般的になっている。
 自分の失敗を正当化する訳ではないが、人間は自分の考えをしっかり持っていないと、誤って幅広く整備された道の方を選んでしまうことがあるのではなかろうか。本当はもっと自分が勉強したい分野があったのだが、東大というレッテルの誘惑に負け、自分に相応しくない学部を選んでしまったとか、自分のやりたい仕事があったのに、生活の安定を考え大会社に就職し、不満な日々を送っている、とかいう話しをよく耳にする。私とて、この年になっても、いまだに広い道の誘惑に打ち克つだけの意志力が持てないでいるような気がする。

(なかじま・よういち本誌編集長)
                        中島 洋一     『音楽の世界』2011年10月号【論壇】の文章

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