判官贔屓(4) 洋の東西を越えて共有出来る心情をさがす。

 

 「判官贔屓」は日本人の伝統的心理現象を表す言葉だが、社会的不遇を招きながら、自分にとって大切なものを求め続け、またそれを守り続けた人間に対して同情、共感する心情は、洋の東西の垣根を越えて存在する。
私がカルロスに「多くの日本人は、純粋すぎる人間、正直過ぎる人間はこの世の中では成功しないと考える」と語った時、「それはそうだ」と大きく頷いた。
私は子どもの頃、子供用に脚色されたビクトル・ユーゴの小説[ノートルダムのせむし男(原題:ノートルダム・ド・パリ)]を読んで甚く(いたく)感動したことがあった。醜いせむしの鐘つき男、カシモドは、自分に優しく接してくれたジプシーの女エスメラルダを密かに愛するようになる。彼は最後までエスメラルダを慕い続け、処刑された彼女と死をともにする。「見かけは醜いカシモドだが実は見かけとは正反対に清らかな心の持ち主だった」というところに子供ながらも強く感じ入ったのであろう。  
 歌劇の人気演目の一つ「椿姫」のヒロイン、ヴィオレッタは、高級娼婦という身の上の自分には叶え難い恋とは知りつつも、純情な青年アルフレードを想い続け死んで行く。聴衆は彼女の悲しく一途な想いに共感し、涙を流すのであろう。
こういう心情は、「判官贔屓」と同一化するには少々無理があるかもしれないが、それと類似したところがあると云えるのではなかろうか。
 ところで、侠客映画などで、使われる言葉で「強きを挫き弱きを助く」というものがある。
これは、「判官贔屓」の心情を踏まえ、弱者に味方する行動規範を表した言葉のようだ(語源は歌舞伎で使われた台詞から来ているそうだ)。中学の頃だろうか、国語の先生がこの言葉に対して「強い人間が常に悪者ともいえないし、弱い側に常に正義があるとはいえないだろう」と皮肉ったことがあった。それも、もっともであり、現在では、「強きを挫き弱きを助く」という言葉に共感する人はそう多くないのではなかろうか。
 これは私の考えだが、ずっと昔の下層庶民は、自分の生きたい人生を選択する余裕もないほど、弱い立場におかれていたのではなかろうか。だからこそ、そのような自分たちを見捨てないで助けてくれる、義侠心をもった人物像に憧れを抱いたのではなかろうか。
 私はカルロスに「判官贔屓」の対象となる人物はただ弱いだけではだめだと説明したが、「炎の人」のゴッホはもちろんのこと、ノートルダムのせむし男も、ヴィオレッタも、ただ弱いだけの人間ではない。悲劇的かもしれないが、それは大切なものを求め、守り抜こうとしたことによりもたらされた悲劇である。「判官贔屓」の定義をここまで広げると、洋の東西を越えた心情として共有することが出来そうだ。 
(2018/05/05)

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