劇的なベルリオーズ、詩的なドビュッシー
~ベルリオーズとドビュッシーの人と音楽~
中島洋一
ベルリオーズについて
ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz, 1803年~1869年)は、フランス南部のラ・コート=サンタンドレという小さな町に開業医の長男として生まれました。実家は裕福で、父親のルイ・ベルリオーズ博士は、高い知性と豊かな教養を備えた人物だったようです。ひところは、ベルリオーズは芸術に縁遠い環境で育ったと云われていたこともありましたが、実はそうでもなく、父親はいくらか音楽の素養もあり、フラジオレット(リコーダーに似た縦笛)をたしなんでおり、また、ラモーの『和声論』を蔵書として所有していました。
ただ、当時人口4000人だった町に、ピアノは一台もなく、ベルリオーズが嗜んだ楽器は、15才の時、父に買ってもらったフルートとギターだけでした。この時代の作曲家がピアノ演奏に秀でた人が多かった中で、青少年時代にピアノに触れる機会がなかったということは比較的珍しいことと思います。しかし、そういう負い目を、他の能力を磨くことで克服しようとしたのか、ベルリオーズは、やがて管弦楽法の達人となり、管弦楽技法において音楽表現の新しい可能性を切り開いて行きます。
父親は知的で几帳面な人物だったようですが、母親はヒステリックで激しやすい性格で、エクトルは父母の性格を両方引き継いだようです。後に父親については敬愛の情をこめて回想していますが、母親については「意地悪な母」という、冷たい評価を下しています。それは激しやすく、時には向こう見ずで闘争的な自分自身の性格が、母から引き継いだものであることを意識し、それを忌み嫌ったからかもしれませんが、彼のそのような性格が彼の芸術にも影響し、ある面で彼の芸術の魅力にもなっているような気もします。
エクトルは18才の時、大学入学資格試験に合格し、父の家業を継ぐため医学大学に入学しますが、次第に医学に興味を失い、音楽に傾倒して行きます。そして1823年には医学を断念し、パリ音楽院に入学し、ジャン=フランソワ・ル・シュウールに師事します。
彼は文学にも強い関心を懐き、音楽院時代には、シュエクスピアの戯曲、ゲーテの『ファウスト』に熱狂します。そして、イギリスから訪れたシェイクスピア劇団の女優、ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て感激し、スミッソンとの実らない恋を題材に、有名な『幻想交響曲(1830)』を作曲します。また、この年作曲したカンタータ『サルダナパールの死(ドラクロアの絵で有名)』でとうとう念願のローマ大賞を受賞します。それから1830年7月に、パリで7月革命が勃発しますが、彼は市街戦に参加しようとして鉄砲を持って飛び出します。しかし、実際に発砲することはなかったようです。
1831年、ロ―マ大賞の得たことで、ローマに赴きますが、彼の婚約者だった女性が他の男と婚約したことに激怒し、殺人計画まで立てます。しかし、しばらくして正気を取り戻し、その計画は実行されませんでした。また、ローマからの帰路で、6才年下のドイツの作曲家メンデルスゾーンと出逢い、一時を共に過ごします。ベルリオーズの方は、若くして自己の作曲技術と美学を完成させた秀才作曲家の能力に驚嘆し、敬意を抱いたようですが、メンデルスゾーンの方は、ベルリオーズを、あまり高く評価していなかったようです。
1832年にローマ留学を早めに切り上げ帰国し、1933年には片想いだったシェイクスピア女優、ハリエット・スミッソンと再開し、両親の反対を押し切って結婚します。しかし、夢と現実の世界とでは大きく隔たっており、二人の結婚生活はやがて破綻して行きます。
ベルリオーズの芸術の当時の評価について
ベルリオーズは熱狂的な支持者を得る一方、彼の芸術に批判的な敵や、無理解で冷淡な多くの人々と闘わなければなりませんでした。『幻想交響曲』でセンセーショナルなデビューをしたベルリオーズをいち早く評価したのは、リスト、パガニーニなどでした。ワグナーも評価していますが、後に冷淡になります。
また、彼の作品はフランスではなかなか評価されず、ドイツ、英国、ロシアなど外国の方が、評価が高かったようです。彼は優れた指揮者でもあったので、しばしば外国に演奏旅行し、ベートーヴェンの交響曲や、モーツァルト、ドニゼッティなどのオペラを指揮する傍ら、自作の演奏会も開いていますが、評判はかなり良かったようです。
母国では、音楽評論家として活動し、多くの批評に手を染めています。
また、小説、詩などにも手を染めていますが、後世に大きく貢献した著作は『管弦楽法(Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes)(1844年、1855年補訂)』で、リムスキー・コロサコフ、マーラなど、半世紀後の世代にまで影響を与え続けました。
ベルリオーズと純音楽
ベルリオーズは彼の崇拝者から、ベートーヴェンの後継者と謂われたこともありました。しかし、ベートーヴェンは代表的な純音楽作家ですが、ベルリオーズは文学や戯曲などによって喚起されたイメージによって創作を進めるタイプの作曲家で、本来は劇音楽の作曲家というべき資質をもった人だったと思います。彼はオペラ作曲家としての成功を夢みて、いくつかのオペラ作品を作曲したのですが、1838年、パリオペラ座という檜舞台で初演されたオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の大失敗により、オペラ作曲家としての成功を諦めざるをえませんでした。彼の代表作の一つ、劇的物語『ファウストの劫罰』は演奏会形式で書かれています。
オペラ作曲家として成功しなかった理由は、トーマ、グノー、ビゼー、マスネーなどに比べて大衆性を欠いていた点が考えられますし、また、とかく大編成の管弦楽を好む方向性から費用がかかりすぎたということも障碍になったと思われます。もっとも、ワグナーのように、大編成の管弦楽を使い、芸術性は高いが大衆的とはいえない作品をつくり、成功した人もいますが、ワグナーの場合、バイエルン王:ルートヴィヒⅡ世の庇護を得たことが大きかったと思います。
ベルリオーズの作風
ベルリオーズの音楽は、劇的な激しい変化をともない、大きな盛り上がりを見せることが多々ありますが、その一方、ドイツ系の作曲家によくみられるような、感傷的な陶酔はあまり感じられないように思います。彼の音楽の表現の質は、叙情的というより、叙事的と云った方が似合っていると考えられます。
また、より先の時代に書かれたもののように思わせるほど前衛的な部分があるかと思うと、その一方で、極めて古典的な楽想が表れることがしばしばあります。彼の初期の代表作『幻想交響曲』にも、その両面があります。彼の作品には、伝統性と伝統破壊的傾向が同居しているかのようです。
旋律法や、和声法も独特です。例えばシューマンなどの場合、天才的斬新さを感じさせる要素は十分あるにかかわらず、和声や内声の動きは、大体こちらが予想した通りに流れて行きます。
ところがベルリオーズの場合、予測しなかったような旋律や和音が出現し、それが予期しなかったように流れて行くケースがしばしばあります。それは時にはアカデミックな常套性を超えた斬新さを感じさせ、時には急に道が途絶え荒野につれて行かれたような不安な印象を与えます。
では、このコンサートで演奏する歌曲から、一つ例をあげてみましょう。
前ページに掲載した楽譜は、歌曲集『夏の夜』第5曲の「墓地で」の終わりに近い部分を切り取ったものです。切り取ったはじめの部分の調性は、原調の準下属調に当たるト短調です。Ⅳの和音の後、二段目の★印の部分で意外性のある和音が出現します。この和音は偶成的和音に感じられ、耳は次に右手の内声のソ#はラに上がるか、ソに下がる。シ♭の音はラに行くことを期待します。実際にはしばらく経過した後、その音に行ってはいるのですが、二段目の2小節からは霧に覆われ前方が見えなくてしまったように調性が曖昧になり、減七の和音がしばらく続き、三段目の2小節目~3小節目にかけて、今度は急に道がはっきりと示され、ニ長調のドミナントが表れ、主和音に導かれて行きます。他の曲にも、ベルリオーズならではの意外性を感じさせる部分があります。
ベルリオーズの重要な作品は管弦楽曲と考えられやすいのですが、歌曲も重要で、歌曲集『夏の夜』などは、フランス歌曲の分野で、フランス音楽において新しい歌曲の世界を切り開いた作品といえましょう。この作品にもベルリオーズの劇的性格は表れており、また伴奏部も管弦楽の音色を期待してしまうような色彩感があります。従ってベルリオーズが後に自身で管弦楽用に編曲した管弦楽版で歌われる機会も多のいです。
ベルリオーズは歌を扱った曲でも劇的でダイナミック幅の広く激しい変化をともなう曲を書いていますが、そうかと云って、過度に感傷的になることはありません。
ドビュッシーについて
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年~ 1918年)については、昨年のコンサートでもお話ししておりますので、ごく簡単に記述するに留めます。ドビュッシーは幼い頃から本格的な音楽教育を受け、10才時の1872年から1884年まで、パリ音楽院で学んでいます。ピアノの無い環境で育ち、20才になってから、ようやくパリ音楽院で学んだベルリオーズとは対照的です。18才の頃、チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行に同伴していますが、同伴するピアニストを選ぶ際、メック夫人は即興演奏が出来る人という条件をつけていますが、並のピアニストと違い、極めて才能豊かで革新的な作曲家だったドビュジーは、その要求に十分に答え、夫人を大いに喜ばせたことだろうと想像出来ます。
しかし、ドビュッシーもベルリオーズと同じく、文学、そして美術に対しても深い関心を懐き、フランスの大詩人:ステファヌ・マラルメ(1842-98年)が主宰する「火曜会」にもしばしば顔を出し、多くの文学者や美術家たちと交友関係を結んでいます。
そして1892年~93年に作曲した4編からなる連作歌曲『叙情的散文(Proses Lyriques)』
においては、自作の詩を用いています。
私は昨年度の小講演で、ドビュッシーについて、印象派より象徴派の芸術家として位置づけるのが相応しいという話をしました。象徴派の文学とは目に見えない観念の世界を、それに相応しいイメージを借りて表現する芸術と定義づけられるでしょう。例えば。メーテルリンクの童話『青い鳥』では、青い鳥は「幸福」という観念を象徴するイメージです。
ドビッシューは、声楽曲の分野で、管弦楽曲や、ピアノ曲に劣らぬほど、数多くの傑作を残していますが、その作品の殆どは象徴派の詩人達の詩に作曲されています。ドビッシューの音楽には、魂の微妙なゆらめきが表現されているといえましょう。
ドビュッシーの声楽曲における音楽的特徴を示す作品として、ピエール・ルイス(1870年~1925年)の詩に作曲した『ビリティスの歌』の第1曲「パンの笛(.La Flûte de Pan)」の冒頭の部分を例にあげてみましょう。
前ページに掲載した楽譜をご覧下さい。左手の7の和音を背景に、ピアノの右手にパンの笛をイメージさせるドリア旋法を思わせるなだらかな音階的旋律が表れます。2小節目でドリアの和音を含むカデンツが神秘的に奏でられます。ピアノのパンの笛の旋律を奏でるのに対して、歌のパートは、詩を朗読するように、詩のリズムと抑揚にそって歌われます。メロディと和音を奏でるピアノと、語るように歌われる声のパートが対比的でありながら、なんと美しく調和していることでしょうか。
過剰で誇張した表現になることを極力避けながら、パンの笛を通して仄かな愛を語り合うアポロンと美少年のヒヤシンスの微妙な心の慄きが感じ取れます。
この文は、ベルリオーズとドビュッシーについて、ほんの少し触れたに留まりますし、紹介した作品は、それこそほんの氷山の一角に過ぎません。フランス歌曲を研究する人、フランス音楽に興味を抱く方々は、歌曲だけでなく、二人の作曲家の他のジャンルの作品、そして、その人となりに強い関心をいだいて欲しいと願います。
そうすることで、劇的なベルリオーズ、詩的なドビュッシーという私のやや短絡な見解に対して疑問や異論が生まれてくるかもしれません。
しかし、それでいいのです。生きている人間についてでさえ、接する人によって、かなり違った評価が生まれます。過去の時代に生きた作曲家について、そして、その作品について、様々な受け取り方があるのは当然のことです。
とにかく強い興味を持って、この二人の作品にもっと多く触れて欲しいと願います。
2012年1月22日 コンサート実行委員長 中島 洋一(なかじまよういち)
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