グリーグ没後100年に寄せて     作曲:中島 洋一

 
16年前のベルゲンへの旅

 1990年のことである。飛行機嫌いで、鉄道大好き人間の私は、8月5日(日)、オランダ、ハーグ中央駅午後7:35分発のコペンハーゲン行きの寝台列車に乗り、翌朝列車に乗ったまま、フェリーでオーレスン海峡を渡り、この時期にはまだ明るさが残る6日の午後8時ちょっと前にノルウェーのオスロに到着した。タップリ24時間に及ぶ列車の旅である。このような交通手段を使い旅をすると、ヨーロッパの中心部から、北欧北端の国、ノルウェーまでの地理的隔たりが実感出来るのである。
 オスロで私の好きな、ムンクの絵などを鑑賞し一日過ごし 7日の夜10:50発の夜行寝台車でベルゲンに向かう。長旅の疲れと、レストランでの食べ過ぎが重なって、少々下痢気味になっていた私は、朝の4時頃トイレに行くためデッキに出たが、外の景色を眺めてびっくりした。一面の雪原が早朝の薄明の光の中に浮き上がって見えてきたのである。真夏の8月だというのに。
 ノルウェー第二の都市ベルゲンには朝7時半に到着したが、急に思い立った旅行で事前にホテルの予約などもしておかなかったため、旅行案内所の開門を待って小一時間ほど並んだように記憶している。
 ベルゲンはノルウェー第二の都市ではあるが、人口は25万人程度で、中央ヨーロッパや日本の大都市とはまったく様相を異にし、港を中心に、こぢんまりとまとまり、古い街並みが残る美しい小都市である。そしてご存じ、北欧のショパンとも称されている愛すべき作曲家、グリーグが生まれ、そして生活した街である。
 旅行案内所でホテルとフィヨルド観光の予約をすませ、またベルゲンの観光地図も手に入れた。地図に目を通すと、郊外のトロルハウゲンにグリーグの家がある。勿論、訪れてみたいという気持ちにはなったが、結構時間がかりそうで、フィヨルド観光などと両立させるためには、あと1日滞在を延ばす必要がありそうだった。しかし、オスロを出発する際、泊まったホテルに二日後に戻ることを告げ、再予約して来てしまったので、滞在延長は困難であり、次回に訪れた際、ぜひ訪れることを誓い、諦めることにした。北欧の西端の地ベルゲンに、そう簡単に再訪問できるはずもないのに、気まぐれで無計画な旅行プランによって、残念な結果を招いてしまったのだ。
 ベルゲン市街の散策、フィヨルド観光など、短い滞在期間ながら、美しい自然と建物を眺め、美味しい魚料理に舌鼓を打ち、楽しく充実した旅行ではあった。オスロへの帰路には往路は薄暗い時間に通過した雪原地帯も、昼通過したため、残雪が残り高山植物が咲き乱れる風景を目のあたりにすることが出来た。その辺りは標高1000メートルを越える山岳地帯で、3000メートル級の山々が並ぶ日本の北アルプスの夏を想い起こさせる風景だったが、このような風景は、フィヨルド観光の終わりに船を降りた後、お花畑と残雪を縫って走る高原バスの車窓からも眺めることが出来た。

ルウェーの風土とグリーグの音楽

 しかし、美しいベルゲン地方の短い夏の風景を垣間見た私は、その地方の長い冬の姿を想像せずにはいられなかった。ベルゲンの緯度は北緯60度を越えている。同じヨーロッパの夏と云っても、サボテンが自生するギリシャの灼熱の夏などとはまるで違い、陽光にきびしさはなく、やさしく暖かく、そして頼りなげでもある。一斉に高山植物が咲き乱れる高原地帯の夏は、夏というより春を感じさせる。暗いオランダの冬から想像して、ベルゲンの冬はもっと暗く、高原地帯は長い期間、雪に閉ざされてしまうに違いない。
 グリーグは、ピアノの小品は勿論、弦楽四重奏のような純音楽の大作まで含め、多くの作品でノルウェーの民族舞踊の旋律とリズムを取り入れているが、その浮き立つようなリズムから、長い冬を乗り切り、春を迎えた民衆の喜びに満ちた気分が伝わってくるような気がする。  
 エドヴァルド・グリーグ(1843〜1907)は、ベルゲンに生まれた。10代の後半、4年間ドイツのライプチヒで音楽の勉強をしているが、その後はしばらく、アンデルセンの住むコペンハーゲンに住み、1866年にはノルウェーに戻り8年間ほどオスロで生活し、音楽活動をしていた。しかし、1874年にはベルゲン地方に移り、1884年から1907年に没するまで、先ほど紹介した『グリーグの家』で一生を終えている。グリーグの家は永住の住まいであり生家ではない。所在地トロルハウゲンとは「トロル(妖精の一種)が住む丘」という意味だそうで、フィヨルドが見渡せる妖精の丘に居を構えるなど、いかにも天性のロマンティスト、グリーグらしい。
 私は訪れることが適わなかったが、創作に専念するには絶好の環境であることが想像出来る。もし、彼が肺を病んでいなかったら、永住の地でより長生きをし、より多くの傑作を生み出したに違いない。
 彼は若い頃ドイツで勉強したのみならず、成人後もしばしばヨーロッパ中を演奏旅行して廻り、多くの優れた芸術家とも交流している。彼の斬新な和声言法は、ショパン、そしてシューマン、ワグナー、ブラームスなどのドイツ音楽、チャイコフスキーなどのロシア音楽、そしてフランク、フォーレなどのフランス音楽と触れあい、それを積極的に消化したことを窺わせるが、彼は終始自ら意識してノルウェーの作曲家であった。しかし、それは決して片田舎の古びた音楽ではない。ノルウェー風+彼風の強い味付けをほどこしながらも、土台にヨーロッパ正統派の音楽を通して磨かれた技術と感性を備えていたことで、彼の音楽は汎ヨーロッパ的な広がりをもつことが出来た。ノルウェーの音楽はグリーグの存在によって、より世界的に広まったのではないかと思う。

 
グリーグと私

 大学一年か二年の頃だったと思う。私が自分で作曲したものを先生に見せると、「君の曲はグリーグみたいだね。君は雪国の生まれだから、北の国の音楽に愛着があるのかね」などと云われたことがある。今の人達には信じられないかもしれないが、我々の世代の作曲の学生は、古典様式での作曲も勉強した。もちろんグリーグも私が興味を抱いた作曲家の一人に過ぎなかったが、私が彼の音楽に興味を持ったのは、ロマンチックで繊細な感性と、それを実現させている、民族旋法を取り入れた旋律、半音階的声部書式にもとづく変化に富んだ和声法であった。私がグリーグの音楽に触れたといっても、ピアノ協奏曲や、ペールギュントのような超ポピュラーな管弦楽曲、そして叙情小曲集などのピアノの小品程度であった。私はピアノ演奏にかけてはまったくの素人であるが、「叙情小曲集」には、素人の私でも手を出せる曲が結構沢山ある。
 ある時、グリーグの曲を、何曲か妹に弾いて聴かせてあげたことがあった。弾いた曲は叙情小曲集から「小鳥」、「春に」、「ノクターン」、「郷愁」といった曲だったような気がするが、妹は「北国の人の曲ね。寒い感じがする」というのだ。勿論、妹は聴いた曲が北欧の作曲家グリーグの曲だということを知っていた訳ではない。なぜ、そう感じたのか推測のは難しいが、独特な民族的旋法を含む旋律と和声、そして高音域で表れる速い音形や7や9の和音、そういう音の響きがそういう感じさせたのであろうか?
 また、グリーグが一時コペンハーゲンに住み、詩人のアンデルセンと友人だったことは、しばらく後になって知ったことだが、子供の頃、アンデルセンの童話を愛読していた私にとって、そのことがグリーグをさらに身近に感じさせることになったことはいうまでもない。アンデルセンとグリーグ、いわれてみると芸術家としての資質、作品のイメージが重なり合うような気がする。

 
グリーグの作風について

 グリーグは半音階的声部進行が極めて多い作曲家である。ワグナー、ショパン、フランクなどにもそのような傾向が見られるが、特にバスが半音階的に下降するパターンは、あまりにも用例が多く、ソルヴェーグの歌、ノクターン、バラードなど類挙に暇がない。
 また、和声進行においては、Y→T、T→V、U→W、など根音が三度上行する弱進行が極めて多いし、X→Uや、それ以外の弱進行も多い。和音の響きの面では、増三和音、属九など9の和音、減五短七、長七などの7の和音が多い。増三和音の例としては、歌曲「初めての桜草に、Op.26-2」の冒頭のTの後の和音、同「私の願い Op.33-10」の変ホ長調の中間部、これらはXの第5音が上がって出来た増三和音だが、短調の主音が下がって形成されて出来た増三和音の例としては、同「春 Op.33-2」の二つめの和音などがそうである。もちろんピアノ曲などにもこのような例は多く見られる。
 譜例がないと判りにくいので、グリーグの半音階的声部進行を示す典型的な例として、ピアノ曲「バラード」Op.24 の冒頭のテーマの部分を紹介しよう。


 この部分では、バスが半音階進行していないのは、アウフタクトを除く、2小節目、6小節目、7小節目の1拍目だけで、他はすべてバスが半音階下降している。また旋律部を除く内声部も半音階進行が目立つ。グリーグの和声法ではバスが半音階進行をするケースが非常に多いが、殆どの場合半音階下降であり、バスが半音階的に上行するケースは決して多くない。グリーグは声部の半音階進行によって、斬新な和音を導く。例えば@の箇所は変ロ短調のTの6の和音となっているが、これはバスと内声の半音進行、と旋律線によって生み出された偶成和音である。A〜Dは順番に増246の和音(全音音階系和音)、長三和音、増346(フランスの6)の和音、長三和音となっているが、A〜Dの本来の根音は、D→G→C→Fであり、Dの変ロ長調のXに向かって、ドミナント進行を続けていることが判る。E〜Hも、全音音階系の和音、増56の和音などが表れるが、本来の根音はE→A→D→Gで、原調のTに向かってドミナント進行している。Fの和音の根音がAということについて疑問を持たれる方もいると思うが、この和音の本来の形状はA,C#,E,G,Bbでニ短調の属九、つまりX調の属九の和音であり、バスに第五音が来て、それが下行変位した形、いわゆる増56(ドイツの6)の和音である。その前のEの和音はイ短調の属七の和音なので、EはXのXの更なるXということになり、Fに向かってドミナント進行している。またF→Gのドイツの6→X7の連結においては、通常内声とバスの間で許されるモーツァルトの5度(平行5度)が両外声間で露骨に見られるが、このようなことは19世紀後半の音楽では特に珍しいことではない。 
 グリーグの場合、半音階的声部進行を多用することで、大胆な偶成和音を導くことがあるが、その骨格は古典的なドミナント進行からあまり大きく逸脱してはいない。
 むしろ、バスが全音階的に動いている時、根音が5度下降するドミナント進行から外れ、弱進行を多く用い、古典的な長短調とは異なる、教会旋法(フリギア、ドリアなど)や民族旋法を感じさせる旋法にもとづく和声法を多く用いている。
 もちろん作曲家は、いちいち、こんなにめんどうくさいことを考えながら作曲する訳ではない。優れた和声感を有する作曲家にとって、和声は耳と心で消化され、自分の音の世界の中で血や肉のようなものになっている。和声進行は自分のイメージを膨らませながら導いた音の連なりである。あとで分析的に眺めてみると理に適っていたとしても、それはあくなき修練がもたらした必然的な結果であり、過度に理論的な思考を積み重ねて招いた結果ではない。

 
自らを知り、自分の長所を生かした作曲家

 ところで、グリーグの作品のうち、器楽の大曲は決して多くはない。有名なピアノ協奏曲、弦楽四重奏、三つのヴァイオリンソナタ、一つのチェロソナタ、初期に書かれたピアノ・ソナタなど数えるほどしかない。管弦楽曲も、多くの場合、小曲を集めて組曲形式にまとめた作品である。それはなぜか?グリーグは自分の特徴が美しい旋律と豊かな和声法にあり、ベートーヴェンのように、複雑な動機操作をともなう手法は自分には合わないことを、かなり早い段階で見極め、大曲より小曲の作曲に力を注いだからではないかと考える。例えば同じく国民楽派に分類されているドヴォルザークなどは、民族的な旋律を使いながら、それを動機的に分解し、ドイツ音楽風のモチーフ操作を行ったりしているが、そこに、ヨーロッパ正統派の音楽に対する彼のコンプレックスが表れているのではないかと勘ぐりたくなることがある。その点、グリーグは自分の長所と限界をいち早く自覚し、我が道を進んだ。彼は夢を追うロマンティストである一方で、的確な自己判断が出来るリアリストとしての一面を備えていたことを窺わせる。
 彼は叙情小曲集や歌曲などの小品に、珠玉のような作品を多く残している。独創的な和声法と大胆で新鮮な転調、ノルウェーの民族楽器(ランゲレイクなど)を思わせる完全5度で表れる保続音に乗った独特のアクセントを持った民族舞曲のリズムと旋律など、彼ならではの音楽を多く残してくれた。
 作品の楽式面について少し触れると、a b a の三部形式も多いが、a b a b a というように b a を繰り返すケースが特に小さな楽曲に多い。グリーグの曲は小さくとも変化が激しいので、繰り返すことで、旋律を聴き手に記憶し易くしようといった配慮が働いたのかもしれない。
 最後に、かなり大胆な和声法を用いた譜例を紹介しよう。1991年に書かれた「鐘(Krokkeklang)op.54-6」の一部である。
 この曲は全曲にわたって、左手と、右手が異なる完全5度音程を徹底的に奏で続けるように書かれており、その書法は印象派の手法に近似している。


 しかし、左手と右手の完全5度は、重なり合ってもよく響くように配慮されて書かれている。@は短七の和音、Aは左右で完全五度を4つ堆積する形、Bは同じく3つ堆積する形で9の和音とも解釈出来る。Cは第3音、第9音がないが11の和音を形成している。Dは長七の和音、EはA同じ、FはBと同じ、Gは左手のDに対するC#、Aに対するG#は倚音が付加音化したもので良く響く。確かに、この作品をみると印象派の作曲手法を彷彿させるところがあるが、グリーグの場合は、ドビュッシーなどに多く見られる平行和声の使用はほとんど見られない。  その他、グリーグもカノン的手法をときおり導入するが、それはフォーレのそれに見られるように、あくまでホモフォニーの音楽の味付けのためであり、ポリフォニーの音楽を目指すものではない。グリーグの和声法は独創的且つ魅力的ではあるが、調性的和声法を独自に拡大したもので、ワグナーのように、調性を危うくするような要素は殆どない。
 私はグリーグが繊細な感覚とロマンチック叙情性を持った魅力的な作曲家であることを疑わない。しかし、一見大胆にみえる箇所も、奇を衒ったり、人目につくことを狙った山師的精神とはまったく無縁と思えるし、革命的な音楽を書こうといった気負いもなかったのではないかと思う。彼はノルウェーの美しい自然、妖精伝説を愛し、それをヨーロッパ中に広めることを自分の使命と感じ、音楽活動を続けたのであろう。
 グリーグは私にとって、文学におけるアンデルセンのように、敬愛してやまない、北欧の芸術家である。
          なかじま よういち(理事・相談役)

中島 洋一     『音楽の世界』2007年2月号掲載

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