今回のオペラコンサートの企画に際して、殺人が重要な要素になっている作品からという選曲条件をつけたこと、及び「愛・憎しみ・血の惨劇」というサブタイトルを付したことについて、本会の女性陣を中心に拒否反応がないではなかった。特に「血の惨劇」という言葉については、B級ミステリーみたいだ、現代のような殺伐なご時世に、そのような殺伐な言葉を使うのは好ましくもない、といった意見もあった。「血の惨劇」の文字は、ドギツイ表現を使うことで、その文字を見た人が「一体どんなコンサートだろう」と中味に注目してくれることを期待して選んだ言葉である。チラシの裏面、および、『音楽の世界』のプログラムの最初の「あいさつ」に書かれた文章で表したものが、今回の企画の主旨である。
では、オペラのドラマ性とはいかなるものか?一オペラといっても、その世界は極めて多様であり、一言で表現できるはずもないが、一般的な作品を念頭に、他のジャンルの芸術と比較してみよう。
先ほど「血の惨劇」という言葉の使用意図について、手の内を明かしてしまったが、もし、血生臭さ、残酷さとかを生々しく伝えることを第一目的とするなら、オペラより映画など映像芸術の方がより向いていると思えるし、聴いた人の心に、恐怖、衝撃をあたえることを狙うなら、音楽より、効果音を主体とした音響の方がより効果的であろう。また、複雑なストーリー展開を通して、この世の織りなす複雑なしがらみをあぶり出そうとするなら、小説や、戯曲といった芸術ジャンルの方がより相応しいのではなかろうか。
しかし、この世がもたらす喜び、悲しみを、感性、情念を通して訴えようとする時、オペラは最適な芸術様式ではないかと考える。
オペラと言葉
小説の場合は、言葉を理解できなくては、内容が伝わってこない。演劇の場合は、俳優の動作、セリフの抑揚などから、言葉を理解できない人でも、ある程度の内容把握は可能であろう。では、オペラの場合はどうであろうか?もちろん、オペラにおいても言葉は重要であるが、オペラの言葉は音楽を導くための素材であり、言葉によって導き出された音楽の方がさらに重要と思う。例えば、私のように語学が堪能でない人間は、外国劇団の演劇公演があったとしても、言葉を理解できないので、足を運ぼうという気持ちになれないが、オペラの場合は違う。日本で公演される外国オペラ作品のほとんどは原語公演であるが、言葉を理解できなくとも十分楽しむことが出来る。最近のオペラ公演では、字幕スーパーで翻訳された歌詞が流されることが多いが、聴衆の目は殆どの場合、文字より舞台の方に注がれている。それは外国でも同様と思われる、英国のコペントバーゲン歌劇場で、ウェーバーの『魔団の射手』が公演された際にも、字幕スーパーで英訳された歌詞が表示されていたが、聴衆の目の殆どは舞台の方を向いていた。英国紳士は教養があるから、みんなドイツ語に堪能なのだろうという訳でもなかろう。聴衆には日本人など外国人も大勢いたことだし。
私が大学1年の時、ワグナーの『マイスタージンガー』日本初演を日比谷公会堂へ聴きに行ったことがある。その時は日本語で演奏されたが、ワグナーのオペラの日本語公演など二度と聴きたくないな、たとえ言葉が解らなくとも原語公演の方がよい、と思った。
一方、同じオペラの仲間でも、オペラッタやミュージカルのように、セリフを伴う音楽劇の場合は、セリフの部分を日本語でやった方が、日本の聴衆にとって、より興味深いものになる。オペレッタではないが、私がアメリカに行っていた時、スタンフォード大学の音楽科で『魔笛』が英語で公演されるのを聴いたことがあるが、セリフの部分などでは、即興でギャグを入れて、聴衆を笑わせていた。
音楽の部分を英語で歌うことの是非は私には判断できない。しかし、日本語でワグナーを歌うほど不自然でないのは、多分間違いないと思う。
オペラのドラマ性について リゴレットを中心に
この文の最初の方で語ったように、込み入ったストーリー展開を持つもの、複雑な会話を通して内容を伝えるものは、オペラには向かないと思う。オペラ作品の場合、戯曲や小説を原作に持つものも多いが、オペラ化するに当たってストーリーや登場人物に変更が加えられたり、劇の骨格はそのまま残しても、セリフを歌詞に移す際、言葉の節約、歌うのに適した言葉への変更といった作業が行われるだろう。オペラは言葉によって演じられるドラマではなく、音楽によって演じられるドラマなのである。
オペラのドラマ性、登場人物の描き方について、今回の演目のうちから、『リゴレット』を中心に述べてみよう。
実は、私はこのオペラのもととなったユーゴの原作『王の逸楽』は読んでいない。資料によると土地がパリから北イタリアのマントヴァに、主人公のフランス国王フランソワ一世がマントヴァ公爵に置き換えられただけで、物語は原作そのままということたらしい。
しかし、このオペラを知っている人なら誰でもすぐ気がつくとおり、オペラでの主人公はあきらかにリゴレットであり、マントヴァ公爵ではない。このオペラではリゴレットという人物に照準を合わせ構成して行くことで、より集中力のある劇的表現を達成しているように見える。もちろん、ジルダ、マントヴァ公爵も音楽上は極めて重要である。しかし、その二役とも、リゴレットを中心にすることで、はじめてその劇的役割が明確になって来るのではなかろうか。
まず、オペラから、道化リゴレットという人物を想像してみよう。セムシで風采の上がらないこの男は、見過ぎ世過ぎのためとはいえ、状況に自分を過剰順応させ、主人である公爵に媚びを売り、公爵の女狩りの手伝いをする。彼のようなへつらい人間の場合は、表面的には主人に対してヘイコラしていている分だけ、心の深層部において、主人に対する劣等感と憎しみが蓄積されていることが推測できる。自分の唯一の宝物である愛娘ジルダが公爵に奪われた時、それは数十倍、数百倍にも増幅され、激しい怒りと復讐心となって彼の心を満たす。彼は復讐の目的を果たすため、刺客のスパラフチーレに公爵殺害を依頼する。そんなに憎いなら、なぜ自分自身の手で殺さないのか?
もし、リゴレット自ら公爵を手にかけようとしたなら、ジルダが身代わりになって殺させるというこのオペラの設定は成り立ちにくい。では刺客への依頼は、ジルダの死を導きだすためのストーリー上のご都合主義なのか。いや、そうではなかろう。自分の手を汚さず、金で目的を果たそうとするように描くことで、小心で卑怯な彼の性格が一層くっきりと浮き上がって来る。
では、リゴレットにとってジルダはいかなる存在か。彼にとってジルダは命にかえても守りたいものに違いはないが、娘の人間性を認めて愛するというのではなく、あたかも絶対に失いたくない宝石を、宝石箱に入れ鍵をかけて保管するように、自分の所有物として大切にしているのだ。一番憎んでいる相手に一番大切にしているものを奪われたことで、リゴレットの悲劇は最大限に増幅される。この二人はリゴレットの悲劇を描くために絶対的に必要不可欠な存在であることはいうまでもなかろう。
今度はリゴレットとの関係を離れて、二人がどのように描かれているかを考えてみよう。
公爵は悪人として描かれているのか。いや、そうともいえまい。彼はジルダがさらわれた時、涙さえも見せているのだ。陰湿で冷酷な性格ではなかろう。しかし、自分の逸楽のために、次から次へと女に手を出し、女及び周囲の人間を傷つけてもなんとも思わない。それは性格の悪さから来るものというより、生まれながらにして社会の再高層で生きてきた人間の奢りと自信がなせるわざかもしれない。『レ・ミレザブル』の作者であり、その強い社会的正義感によって民衆から多くの支持を得ていたユーゴのこの戯曲の狙いは、虫やなめくじを踏みつぶすように人を平気で踏みつぶす、王や貴族の傲慢さ身勝手さを描き、それを告発するところにあったのかもしれない。しかし、この傲慢で自信家の色男の公爵の魅力に、刺客スパラフチーレの妹で海千山千の女と思われるマッダレーナまでが虜になってしまうのだ。彼女は公爵が住む貴族階級とは違った世界の人間である。もっとも、彼女が公爵に魅せられることがなければ、ジルダが身代わり殺されるシーンを導き出せなかった筈であるが。
リゴレットの人物像がはっきりと描かれているのに較べ、公爵をリゴレットとの関係を離れてみた時、その人物像はそれほどはっきりとは見えて来ないのである。
では、ジルダはどうであろうか、彼女は教会で公爵を一目見たときから公爵の虜になり、弄ばれた後も公爵を想い続け、命まで捧げてしまう。彼女の愛を世間知らずなおぼこ娘の錯覚と言ってしまえばそれまでだが、それにしてはあまりに真剣に一途であり過ぎる。 例えば『ドン・ジョヴァンニ』のエルヴィラのように、男の行状を知り、憎しみを抱きながらも男に対する想いを捨てきれない女の方がずっと生身の人間に近い。
では、ジルダの愛は単なる錯覚ではなく『オテロ』のデズデモーナの愛のように、相手の心を感化しうるほどの力を持つ、強く一貫性のある純愛なのか。
もし、このオペラがジルダの死で終わらずに、死後のことが描かれていれば、ジルダの死に接した公爵が「馬鹿な女だ」とあざ笑うか、自分の行いを後悔し、ジルダの墓の前に跪くかで、ジルダの愛の性格がもっとはっきりするし 公爵の人物像もより鮮明になろうが、それを描くことがこのオペラの目的ではない。ジルダはリゴレットにとってかけがえのない宝物であり、その宝物を最も憎んでいる男に、しかも体だけでなく心まで奪われ、あげくの果てに、最愛の娘を自らの手で殺してしまう結果になったしまったことで、悲劇は最大値まで増幅される。余分な要素を切り捨て、描くべきポイントを絞り、類い希な音楽の力によって悲劇を描いたところに、このオペラの成功があったと思うのである。
おわりに
私もずっと昔、オペラを手がけたことがある。それは童話風の作品であったが、歌の部分以外には、セリフをかなり用いた。我が国にも昔から、能、歌舞伎など舞台芸術が存在する。歌舞伎のことを日本版オペラと称する人もいるが、歌舞伎と西洋のオペラとでは音楽の占める比重がまるで違う。歌舞伎の場合はセリフや踊りもかなりのウェイトを占めるが、オペラの場合は圧倒的に音楽の比重が高いのである。
最近、私は音楽と舞踊を中心とした舞台芸術も手がけている。舞踊を使った場合、オペラでは表現できないことを表現することも可能になるが、オペラや演劇とは違った制約がある。特にそこにドラマ性を持ち込もうとすると実に難しい。創作家のはしくれである私としては、オペラ、ダンス、オペラッタ、ミュージカルなどのジャンルに囚われず、様々な舞台芸術創造の試みがあってよいと思うし、そういう創造行為を続ける中から良い作品が生まれてくる可能性があると思う。現在の日本は、創造する者にとって決して良い環境とはいえないであろうが、古典作品の上演だけでなく、新作の上演も活発に行われることを期待する。
しかし、創造する立場からみても、改めて古典作品の見直しをすることは、決して無駄な作業ではないと考える。
今回のコンサートでは「殺人が重要な要素になっている作品」という条件で、5作品を選んだが、そのような条件に関係なく、いずれもドラマチックな作品であるだけでなく、傑作中の傑作であることに疑いの余地を挟む人は少なかろう。表現方法と表現内容が一致し、それが強い創作力に裏付けられた時、傑作は生まれるのであろう。
なかじま よういち(本会事務局長)
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