私が初めてオペラに触れたのは、小学校3年の夏休みに、母に連れられて観た『トスカ』であった。日光で母方の親戚の集まりがあり、その足で東京の母の姉の家に泊まり、一日で、歌舞伎とオペラをハシゴ観劇するという凄まじいスケジュールだったのだ。
子供達の情操教育のためというのは表向きの口実で、久しぶりに東京に出た母が、田舎では食べられない芸術という料理を溜め食いしておきたかったというのが本当のところであろう。いくら音楽好きといっても、片田舎の小学校三年の子供に、多分、イタリア語で歌われていたオペラが理解出来る筈がなく、退屈でたまらなかったが、それでも幕間に母がストーリーを説明してくれたので、筋書きについては、いくらかは理解できた。いまでも、トスカがスカルピアを刺殺する場面、カヴァラドッシが銃殺される場面、トスカが自殺する場面は憶えている。
しかし、その後、プッチーニとはあまり縁がなくなる。音大時代には、ワグナー、ドビュッシー、ラヴェル、ベルクなどの作曲家が興味の対象となり、オペラ系の作品ではワグナーが好きで、トリスタンをはじめ、かなり多くのボーカルスコアを揃えていた。プッチーニの作品については30代の中半に、オペラを自作するまでは、あまり触れることが無かったのである。
それでも音大を生活の場としているなら、当然、プッチーニの有名なアリアくらいは、聴く機会がある。耳に入ってくるプッチーニの音楽は嫌いではなかった。
ストラヴィンスキーへのインタビューを本にした『118の質問に答える(1961年出版)』の中で、ストラヴィンスキーは「ディアギレフは笑いながら死んだ。(そうして、どんな音楽にも劣らず、本当に好きだった《ラ・ボエーム》を歌いながら」と回想している。実はこの部分は、脳を患って死んだラヴェルの悲惨な死を語るため、ディアギレフの幸せな死を対比させて述べたものだが、《ラ・ボエーム》の何を歌いながら死んだのかは書かれていない。しかし、死の間際に歌った心の歌が《ラ・ボエーム》だったことは、なんとなく判るような気がした。
芸術作品には、強い衝撃を受ける作品、偉大さに圧倒されそうになる作品があるが、その一方、自分の心に染みこんで来るたまらなく好きな作品というものがある。私にとってマーラー、太宰治などは後者に入るが、プッチーニも多分、こちらに入るであろう。
プッチーニの作風
《現代音楽》という枠組みに囚われていた若い頃は、プッチーニの芸術を、現代につながらない過去の伝統世界の芸術という先入観でみてしまっていたが、そのような枠組みを取っ払って見直してみると、気づくことは、彼が同時代に現れた様々な新しい音楽を排除せずに、その成果の多くを自分の音楽に採り入れていることである。例えば「私の名はミミ」の冒頭の旋律線と和声からは、そっとワグナーの顔が覗き、「歌に生き、恋いに生き」の冒頭の三和音の平行和声は、ドビュッシーを連想させる。特に平行和声や、内声に和音を持ち上下の外声が同じ旋律を奏する輪郭法的手法は、プッチーニが好んで多用する。
また『蝶々夫人』では、“さくら さくら”、“かっぽれ”など、多くの日本の旋律が採り入れられているのは、ご存知の通りだが、『トゥーランドッド』では、よりこなれた形で、中国の5音音階が採り入れられている。さらに、同作品では、複調、ポリコードといった当時の前衛的作曲家の間で流行った手法もみられる。以下はオペラの冒頭の部分の譜例である。
ユニゾンで現れたトゥーランドッドの動機が、3小節目の頭で嬰ヘ短調の主和音に落ち着くと、短三度上に同じ動機が姿を現す。3小節目の最後の変イ音は本来嬰ト音であり、嬰ヘ短調の主和音の上にイ短調の動機が乗る復調の形態が現れている。5小節目の和音は、下のDmの和音の上に、C#Mの和音が乗るポリコードの形態をとっている。しかし、上の和音のC#,E#,G#のうち、E#はFの異名同音であり、C#,G#はそれぞれ、DとAの倚音が付加音化したもので、よく響くように配慮されている。このような和音の重ね方は、プッチーニ、ラヴェルなどが好むところである。
しかし、プッチーニは単に流行を追う作家でもなければ、もちろん頑固に外からの影響を排除する作家でもない。彼は、自分の好みに合致したものについては、何でも積極的に採り入れ、自分の芸術の材料として消化する胃袋と技量を持った作家であった。そして様々な手法は、劇的効果を高め、音楽ドラマとしてのオペラに、迫力と魅力をもたらすために使われる。前述の『トゥーランドッド』の冒頭もトゥーランドッド姫の性格を暗示し、このオペラの展開を予感させる効果を狙ったものであろう。また、彼が好んで用いる示導動機は、ワグナーの『指輪』4部作のように説明的に用いるのではなく、愛の記憶を呼びさますように使われ、聴き手を主人公の心の世界に引きずり込んで行く。彼は劇的効果を求めて、同じ音型を転調して反復する手法を多用するが、劇的効果の追及はドラマを完結させる終止にも及ぶ。蝶々夫人の最後はロ短調の主和音(ロ、ニ、嬰への和音)ではなく、ロ、ニ、ト音の和音で終わっている。嬰ヘ音をト音に変えたことで、蝶々夫人の死、不在を強烈に印象づけているのだ。
プッチーニが拘ったもの
プッチーニが最も好み、また拘ったのは、女性であろう。彼は日常生活においては、女を泣かせたこともあろうが、逆に女の強い嫉妬心、独占欲に苦しめられたこともあろう。しかし、彼は自分の芸術においては、美しい女性像を追及し続けた。
例えば、蝶々夫人の登場場面では、すぐには舞台に姿を見せず、愛の主題が増三和音に入るところで、コーラスとハープに導かれ、舞台裏から蝶々夫人の声が聴こえて来る。このシーンは夢の世界で妖精に出逢うように、神秘的で美しい。また、ずっと待ち続けた夫が帰って来たと知り、有頂天になり、部屋を花で満たそうとしたり、障子に穴を開けて、帰って来る夫の姿をのぞき見しようとするシーンなども、女の可愛らしさ、いじらしさが見事に表現されている。そして、最後は、自身のプライドと心にある理想の愛を守るために、彼女は死を選ぶ。このオペラは日本を舞台にしてはいるが、日本女性を描いたのではなく、プッチーニ自身が求めた女性像を描いたのである。
プッチーニは最後まで、女と愛のイメージを追い続けた。それが、あの叙情的なプッチーニ節を生み出した。そして、様々な音楽要素を取り入れ作風が変化して行っても、決してプッチーニ節を捨てることはなかった。それは『蝶々夫人』の“ある晴れた日”や、『トゥーランドッド』の王子のアリア『誰も寝てはならぬ』や、リューのアリアを聴けばすぐ判る。彼はプッチーニ節により、多くの人々から愛されたが、一部の専門家から通俗的過ぎるとの批判を受けた。しかし、彼の後輩に当たるラヴェルやストラヴィンスキーなどの大作曲家たちは、プッチーニの芸術家としての力量と存在意義をちゃんと評価している。
第二次大戦後の現代音楽の世界では、何を書くかより、どのような方法で書くかの方が重要視されてしまった。そして、「もう音楽資源は食いつぶされてしまい、新たに書くべきものは何もなくなった」などと、まことしやかに言われたことがあった。しかし、人に音を使って書きたいこと、書くべきことがある限り、音楽資源の枯渇などあろう筈はない。
プッチーニは、自分の書きたいものを書くために進化し、その一方で、そのために自分のスタイルを守り通した。プッチーニが歩んだ道は、いま、新しい芸術を創造しようとしている我々にとって、良いヒントとを示すものではなかろうか?
本会理事・相談役く(なかじま・よういち)
中島 洋一 『音楽の世界』2009年8/9月号掲載