2100年のピアノコンサート       夢音見太郎

 
 しばらく、夢を見てうなされていたような気がするが、ようやく目覚めたようだ。しかし、頭が重くボーッとしていて、夢の中にいるのか、現実の世界に呼び戻されたのかさえ定かではない。相変わらずのことながら低血圧で貧血症の私にとって、朝の寝覚めの時間は大の苦手なのである。
 時刻を知ろうと目覚まし時計に目をやると、どうしたことか針が止まっている。道理で時計が起床の時間を知らせてくれなかったはずだ。居間に行きテレビのスイッチを入れてみるが、ディスプレイには何も映らない。おかしい、買い換えてからまだ一年も経っていないのに。しょうがないので電源を入れっ放しにしていたパソコンの画面を見る。カレンダーは『2100年5月1日』と表示されている。あれ、2000問題は解決済みの筈なのに・・・・。それに間違いだとしても1900年ではなく、なぜ!100年後の2100年が表示されているのだろうか?
 辺りを見渡すと部屋の壁がまるで霧を通したようにボンヤリ見える。ああ、あっちにドアがある。でも、おかしいなあ。あっちの方向にドアなんてあったっけ。訝しく思いながらもそちらへ進みドアを開けると、そこはもう玄関で、どこから入って来たのか、顔見知のような気もするし、そうでないような気もする男に声を掛けられた。
 「夢音先生!『音速の世界社』のAです。今日は【コンサート=エクセレント】で有毛理知(あるげりち)女史と凝党(こるとー)氏がショパンを弾くことになっており、先生にその取材をお願いした筈です。
 「えーっ、そうだったっけ。それにしても、こんな寝間着姿じゃ・・・・、とにかく身だしなみを整えてこなくちゃ」。「先生!いささか古風ないでたちですが、ちゃんと正装していらっしゃるではありませんか。」「えっ!」、言われてみて自分の服装を確かめると、いつのまにやら背広を着ていた。「ではどうぞ。私の車で!」。彼に案内されるままに奇妙な流線型をした黒い車に乗った。「それにしてもこの車、ぜんぜんエンジンの音がしないね」、「えっ?うるさくエンジンの音がしたり有害な排気ガスを大量に噴出したのは百年前の車ですよ。今の車は電気で動いているので音も排気ガスも出ませんよ」。
 そうか、私は何かの間違いで100年後の世界に来てしまったのだと、その時になってようやく気がついた。

 
新記録がかかったコンサート

 しばらくして我々はコンサートホールに到着した。中に入ると、まだ開演三十分前というのに千人程度は収容できると思われるホールはすでにほぼ満席になっていた。しかも、若い人達の姿が目立つ。若年層のクラシック離れは百年後にはもっとひどくなるに違いないと思っていただけに予想が外れてすっかり嬉しくなり「いつも、こんなに盛況なの」とA君に訊いてみた。「いえ、今日は特別です。何しろ世界記録がかかってますからね。」「世界記録?スポーツじゃあるまいし」私はA君の説明にさっぱり合点が行かなかったが、まずは二人の演奏に耳を傾けることにした。
 演奏曲目はショパンの変ロ短調ピアノソナタだったが、なんとも不思議なコンサートで、まず凝党氏が第一楽章を弾くと、有毛理知女史が同じ楽章を弾くという具合に、各楽章ごとに二人の演奏を比べて聴くことが出来るようにプログラムされている。二人とも驚異的な技巧の持ち主だということはすぐ実感できたが、彼らの演奏からはなんの音楽的感動も伝わってこない。
 四楽章に入るとまったく度肝を抜かれた、二人とも信じられないようなもの凄いテンポで弾きまくったのだ。それにお客の多くが時計とかストップウオッチのようなものとにらめっこしながら演奏を聴いているのも実に異様な光景だった。
 そして、二人が弾き終わったところで大きな拍手がわき起こった。すぐに司会者がステージに登り、大袈裟な身振りをまじえながら「みなさん!驚異的な世界新記録が誕生しました。凝党さんが四九・八九八秒、有毛理知さんが四九・八九六秒でお二人ともとうとう五〇秒を破りました。お二人とも正確度九九・五%をクリアしていますので記録は公認されます。また「葬送」といわれている第三楽章でも世界新記録が誕生した模様です」と語る。ここで、会場一帯が割れるような歓声と拍手に包まれた。
 「一体三楽章はどんな記録がかかっていたの?」「何か気がつきませんでしたが」「そういえば二人の演奏はまるでコピーしたかのように瓜二つだった」「そうでしょう?葬送行進曲は近似度を競う記録がかかっていたのですよ。二人の演奏情報はコンピュータで解析され、テンポのユレ具合、アッタクの強さなどすべての演奏情報が比較されます。今までの記録は近似度九九・九八六%でしたが、多分、その記録は破られたでしょう。」彼はニッコリ笑い「どうでしたか、今日の演奏会は実にエキサイティングだったでしょう」と言う。「こんなものは音楽じゃない」私は吐き捨てるように言った。「音楽だって色々な楽しみ方があってもよい筈です。それに一九世紀に作曲された作品の生演奏なんて、普通のやり方をしていたんじゃ誰も聴きに来てくれやしませんよ」。彼は冷ややかに笑いながら言った。
 「私が聴きたいのはこんな演奏ではない。アシュケナージ、アルゲリッチ、ちょっと遡ってホロヴィッツ、ルービンシュタイン、コルトー。ああ!昔は良かった」。彼は片目をつむりながら妙な笑い方をし「そんなに昔の演奏が懐かしいんですか?じゃ第九ホールにご案内しましょう。」と言うと、こちらに来るようにと手招きして、すぐ歩き出した。

 
あ!ルービンシュタインだ!

 曲がりくねった狭い廊下を潜ると小さなホールのロビーに出た。ロビーの椅子にはコンサートの開始時間に遅れた数人の人々が椅子に座って待っている。昔から見慣れた光景だ。「今は演奏中のようです。ここのお客さん達はマナーにうるさいんですよ。今演奏している曲目が終わるまで待ちましょう。」もちろん、彼に言われるまでもない。しかし、どんな演奏をしているか興味深々だったので、入り口の扉に耳を当て、漏れ聴こえて来る音に耳を傾けた。すると、なんとさっき聴いたのと同じショパンの変ロ短調のソナタが演奏されていたのだ。そして、それはまさしく昔懐かしい名演奏の音だった。「この演奏はルービンシュタインじゃないですか?」私は彼に向かって小声で言う。「そうです!大当たりです。大したものですね」。彼は答えた。これはレコード演奏だろうか、それにしては音が生々しい。昔の演奏データをもとに自動演奏ピアノで演奏しているのでは?それにしては精緻な演奏だ!」そんなことを思い巡らしているうちに、演奏が終わった。
 中に入るとそこは数十人程度しか収容できないサロンホールで、小さなステージにセミコンサート用のグランド・ピアノが置かれていた。しばらくして聴衆の拍手に迎えられピアニストが再登場した。
 私はびっくり仰天した!そのピアニストはまぎれもなくアルトゥール・ルービンシュタインその人だったのだ。幽霊か?それともクローン人間か?私の頭は混乱した。ルービンシュタインはショパンの変イ長調のバラードを弾き始めた。私が音大の学生だった頃、レッスンで悪戦苦闘したことのある懐かしい曲だ。「百年後の世界で本物のルービンシュタインの演奏が聴けるなんて!」
 演奏終了後も私の興奮は収まらず、なにがなんでもこの奇跡の人にインタビューしようと、礼儀作法もそっちのけでステージに上がった。ところが慌てふためいたため身体のバランスを失い「あぶない!」と思った瞬間にはピアニストの方に倒れかかっっていた。
 「あっ」と私は叫んだ。なんと私の身体はルービンシュタインの身体を貫徹し、ピアノ椅子に寄りかかっていたのだ。ワッハハと嘲り笑う人々の声がして、私は我に返りAの方を見た。
 「あまりに真に迫っていたので本物の生演奏と間違えられたようですね。夢音先生が推測された通り、これは自動演奏ピアノによる演奏です。ただ情報処理の精度、およびピアノを動かすメカニズムが昔と比べものにならないほど精密になっているので、生演奏をほとんどそのまま再現出来るのです。おまけにリアルな立体映像つきですからね」私はあっけにとられていた。
 「ご自分の好きな演奏家の演奏をリクエストすることも出来ますよ。百年前の日本のピアニスト、例えば内田光子、中村紘子、深沢亮子、北川暁子といった人達の演奏も再現できます。どうです。今度こそ満足されたでしょう。ワッハッハ」 
 Aの笑い声だけがいつまでも虚ろに響いていた。
   (この稿完)

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