突然A君から電話があり、新年早々五十年後の2051年の世界へ取材に行かなければならなくなってしまったのだ。
今回の取材の目的は、昨年のショパンコンクールで日本人で初めて、しかも史上最年少で優勝を果たし、音楽界のみならず世間の話題をさらった、美少女ピアニスト『葦長小百合』の五十年後の姿を報告することである。
五十年後の世界に飛ぶと、私は小さなコンサートホールの座席に座っていた。あらかじめ、取材対象の人間の近くに移動することが出来るように特殊なセンサーを携帯していたので、葦長小百合が出演すると思われるこのコンサート会場に瞬間移動出来たのであろう。 周りに目をやると、やたらと男性客が目につく。彼女がショパンコンクールで優勝した時は一六才だったから、いまは六十六才になっている筈である。さすがに葦長小百合だ。もうお婆ちゃんといってもよい年齢に達している筈なのに男性客が多いのは、多分昔の美貌を失っていないからだろう、と感心した。
しかし、私は拍手と共にステージに登場したピアニストを見て驚いた。そこには、あどけない少女から、ますます美しさに磨きをかけ、男を惑わす女の香りを漂わせる絶世の美女に成長した葦長小百合の姿があった。もしかして、誤って私は五年後の近未来に来てしまったのか、と一瞬思った。
ところが、演奏が始まると今度はがっかりさせられた。あの華麗なテクニックと心を魅了する音色はすっかり陰を潜め、アマチュアに毛が生えた程度の拙い演奏をしている。大病でも患い指に障碍が生じ、急に技量が落ちたのかな、いやあの美貌からしてそんな筈はない。これは変だ、何かおかしいぞ、と私は直感した。
「今演奏したのは、ほんとに葦長小百合さんですか?」休憩時間に隣の年輩客に語りかける。「えっ!葦長小百合は二十年以上前に亡くなりなりましたよ。」「では今演奏したのは一体誰ですか?」「天文学者でA大名誉教授の愛野氏のお嬢さんで、名前は同じ小百合さんといいます。」「きっとお母さんは葦長小百合ですね?」「葦長小百合は愛野氏と結婚していましたし、そうお答えしたいところですが、彼女の出生には秘密があるようですし、昔。葦長小百合の大フアンだった私としてはこれ以上言えません。」「そうか、もしかすると、やってはいけないことを?」私は言うにいわれぬ不安を感じたが、とにかく愛野博士と会ってみることにした。
愛よ、よみがえれ!
呼び鈴を押すと気弱そうな老人が表れたがそれが愛野博士だった。「貴男と葦長小百合さんの関係を教えてください」私は、いきなり切り出した。
「彼女と初めて会ったのは私が二十才の時です。私の方は最初から夢中になりましたが、その頃はまだ彼女にとって、私はたんなる一ファンに過ぎなかったと思います。でも、ある時、知人宅で彼女と連弾をする機会を得たのがきっかけで、彼女の心にもほのかな愛が芽生えたようです。でも、彼女は演奏活動で多忙な日々を送っていましたし、私は私で月面に建設する大望遠鏡建設国際プロジェクトの仕事で忙しく、たまにしか会うことが出来ませんでした。しかし、会う度にお互いの愛が深まって行き、私が四十才になったのを期に、結婚に踏み切ったのです。彼女は忙しい演奏活動が続くなか、良く尽くしてくれました。暇をみて一緒に連弾をする時間が私にとって至福の時でした。
ところがその幸せは長くは続きませんでした。二十三年前、愛する妻は突然急性白血病を患い、短い闘病生活の末、帰らぬ人となってしまったのです。しかし、私にはどうしても彼女の死を受け入れることが出来ませんでした。私には彼女がいない人生など考えられなかったのです。それで私は友人で生物学者である黒音に相談を持ちかけました。彼は彼自身が主宰する『時間差一卵性双生児研究会』の研究に私が協力するという条件で、小百合の細胞から小百合のクローンを作ることを承諾しました。そして、やはり小百合をこよなく愛していた彼女の妹がクローンを出産するための代理母の役割を引き受けてくれました。」
「いくらなんでも、そんなことは決して許されることではない!人間の為すべきことを超え、神の領域を犯す所業ですぞ!」私は激しい憤りをこめて叫んだ。
「ええ、そうでしょう。でもその時は、どうしても彼女との生活を取り戻したいと、そのことばかり考えていたのです。それに、クローン家畜の普及、黒音達の『時間差一卵性双生児研究会』の啓蒙活動?もあり、前世紀末に比べ、クローンに対する世論の拒否反応はずっと弱まって来ていたのです。」
「『時間差一卵性双生児研究会』って一体何をする会ですか。」「ずばり言ってクローンの研究とその実践を推進する目的で作られた会です。
クローン技術には、受精卵核移植と体細胞核移植という二つの方法があります。受精卵核移植は、受精卵がいくつかに核分裂をはじめた段階で、それぞれの核を取り出し、核を除去した別の未受精卵に埋め込み、人工的に作った受精卵を代理母の体内に移し成長させ、出産させる方法です。こうして生まれた兄弟ともいえるクローンは、お互いにまったく同じ遺伝子を持つ卵細胞から出来ているので、そっくり同じになります。自然に生まれる一卵性双生児は、受精卵がなんらかの原因で、二つにわかれたもので、現象としては同じです。それに対して体細胞核移植は、もとの動物や人間の皮膚や耳、乳腺などから核を取り出し、核を除去した別の未受精卵に埋め込むというやり方をします。なぜそのようなことが可能かというと、ヒトの身体は約六十兆の細胞が集まってできていますが、始まりは一つの受精卵細胞なのです。ただ細胞分裂が進むに連れ、あるものは筋肉細胞へ、あるものは心臓の細胞へと分化して行き、決められた細胞以外はつくらなくなって行き、受精卵細胞時代の全能性を失います。しかし、眠っている全能性を目覚めさせてやれば、受精卵細胞時代と同じ能力を取り戻すことが出来ます。この方法は受精卵核移植に比べ遙かに難しいのですが、受精という過程を通さないので、もとの生体とそっくり同じ性質を持った生体を作り出すことが出来ますから、二十一世紀に入り、良質の家畜を生み出すための有効な手段として普及して来たのです。また、受精卵核移植ですと、受精卵を生きたまま冷凍保存でもしない限り、兄弟達はほとんど同時に生まれてしまうのですが、体細胞核移植の場合、年を隔てたクローンの作成が可能となります。
体細胞核移植で生まれたクローンは同じ受精卵細胞から生まれた一卵性双生児とは生成過程が同じではないのですが、受精卵細胞の機能を快復した体細胞から生まれたのだから、受精卵細胞から生まれた元の人間の、時間差を伴った兄弟だと黒音達は主張し、体細胞クローンのことを時間差一卵性双生児と名付けたのです。黒音達の主張にも科学的根拠はあるし、言いたいことは判りますがね。
自然に生まれた一卵性双生児も体細胞核移植で生まれたクローンも、同一の遺伝子を持つ兄弟という点において変わりはなく、どちらが元の人間で、どちらがコピーなどと差別してはならない。また同一遺伝子を持つといえども、生まれた後の環境次第で異なった人格に育って行くはずであり、社会は各々を独立した人格を持った人間として認めて行かなければならない、黒音はこう主張するのです。
黒音達の主張が理解されるにつれ、クローンに対する社会的偏見は弱まって行きましたが、同時にクローン技術の乱用に対する社会の抑止力も薄れて行ったのです。黒音達の狙いは最初からそこにあったのかもしれません。
裏切られた愛
「そろそろ、愛野小百合さんについて話してください。」私は催促した。
「私は愛する妻のクローンである小百合に妻と同じ名前をつけ、我が娘として本当に目の中に入れても痛くないほどの愛情を注いで育てました。私は娘に私のもとにいつまでもいて欲しかったので、音楽の英才教育は施しませんでした。彼女のピアノの技量が、妻に比べて落ちるのはそのためです。しかし、それだけではなく、私が我が儘に育て過ぎてしまったためか、成長するにつれ、やさしく慎み深かった妻とは違った性格に育って行きました。そして、ある時、決定的な瞬間に出逢い、気が動転してしまいました。
いまや私と別居して一人でアパート暮らしをしている娘のもとをそっと訪れた時、娘が若い男性と逢い引きをしている姿を目撃したのです。そしてその相手というのは..」ここで愛野氏は言葉を詰まらせた。「その相手というのは私そっくりの青年、つまり私のクローンだったのです。黒音は私が知らないうちに、抜き取った私の髪の毛から私のクローンを作り育てていたのです。実は毛の部分だけではクローンを作るのは困難なのですが、毛の付け根の部分に僅かな肉片が残っていたので可能になったのでしょう。
ようするに彼の『研究への協力』という条件は、こういうことだったのです。私は、最愛の妻であり娘である小百合を、私のクローンに奪われようとしています。これぞ!私が犯した罪に対して下された天罰なのです。」彼は両手で顔を覆い泣き伏した。
(この稿完)