「夢音先生!ブッシュ政権が京都議定書からの離脱表明したことをどう思いますか!アメリカの取った態度は大国のエゴ丸出しで、自国の目先の利益のみに囚われており、世界の人類の将来についてなどまるで考えていない。実にけしからん。」我が家を久しぶりに訪れAは、皮肉屋で冷静沈着な彼としては珍しく、えらく立腹し、私に八つ当たりして来た。「京都議定書とは確か1997年12月、京都で開かれた国際会議で合意の上作られた地球温暖化防止のための国際協定だったね。それをとり決めたときは、アメリカも参加していた筈だったが」「もちろんですよ!しかも、アメリカに求められていたノルマは二酸化炭素などの量を2008年から12年の間に1990年の時点より7%減らすというもので、会議の当初、ヨーロッパ諸国から出された案に比べ、かなり緩やかなものだった筈です」「日本をはじめ、世界の国々が京都議定書に従ってノルマを果たそうとしているのに、アメリカだけが離脱するのでは本当に困りものだね」「まったくですよ。本当にこんなことが続いていては、地球の温暖化に歯止めなどかかりっこがないでしょう。このままでは間違いなく100年も経たないうちに人類は破滅の危機を迎えます。」ここまで言って、Aは私にせがむような目配せをした。これは、彼が私に取材を頼みたいときにする仕草だ。「君が言いたいことは判っているよ。人類の未来が心配になって来たので100年後の未来に飛んで行って確かめて欲しいというんだろう」「そう!そう!さすがに夢音先生物分かりがいい。では今すぐにでも100年後の世界に飛んでください」ということになり、私は100年後の世界を訪れた。
まったく騒音が出ない車
私は2101年6月の東京にいた。温暖化が進んでえらく暑くなっているのでは、と心配していたが、梅雨冷えのせいか、上着を着ていても寒いほどだった。町の様子はかなり変わっており、今いるところが東京のどの辺りかということは判らなかったが、まず車の通行量が極めて少なく、騒音がまるでないことに驚かされた。私は100年前の過去からの来訪者ということに気づかれないように注意を払いながら、「地球の温暖化って知ってますか」と、通りがけの人々に語りかけてみた。若い人達は「え!それって何ですか?」と迷惑そうに答えて、足早に通り過ぎて行く。ようやく、やや年輩でインテリ風の男性が「地球温暖化?前世紀の初頭にはそのような問題がマスコミを賑わしていたようですが、随分昔の話ですね」と答えくれたが、男は私の顔を不思議そうにじっと見つめ「あなたは、なぜか最近のエネルギー事情を、ご存じないようですね。実は私、今日はちょっと忙しいんですが、明日は暇です。もし、ご都合がよろしいようでしたら、道路のすぐ向かい側にあるあの喫茶店で、明日の午後にでも落ち合いませんか?」私はその男の親切な誘いを受けることにした。
翌日は、昨日とはうって変わり抜けるような青空が広がっていた。私は約束の1時ぴったりに指定されていた『ハイドロゲン(hydrogen)』という名の喫茶店に入ったが、男はすでに来ていた。「自己紹介が遅れましたが、私はエネルギー問題を研究しているKという者です。あなたもエネルギー問題に興味がおありのようですね。」Kは私の目をじっと見つめながら話し続ける。「貴方がおっしゃっていた地球温暖化の危機は、一世紀近く前までは世界の大問題でした。ところが2010年代になると石油資源は急速な陰りを見せ始め、国際石油価格が大暴騰しました。20世紀中にも、しばしば石油資源の枯渇が指摘されていたのですが、すぐに新しい油田が発掘され、枯渇説は幾度も覆されて来たのです。21世紀に入ると賢明な専門家達が『開発すべき油田はすでに開発し尽くしてしまった。今度こそ本当の石油危機が訪れる』と警鐘を鳴らしたのですが、過去において枯渇説がしばしば覆されたこともあり、人々の心に油断が生じてしまったのでしょう。多くの国々が慌てて石炭の採掘を再開するなどして対応しましたが、それでも必要とするエネルギー量を満たすには至らず、特に貧しい国々では価格が高騰した石油、石炭を購入出来なくなり、餓えや寒さで多くの人々が犠牲になりました。」「でも石炭の資源にはまだかなり余裕がある筈でしょう」「ええ!当時の先進国では、しばらくの間、石油の不足分を石炭や原子力発電などでなんとかカバーしました。でもよく考えてみれば、地球が数億年もかけて貯めてきた化石資源を人類は僅か数百年で食いつぶそうとしている訳でしょう。危機的な状況に直面し、人々はようやく自分達人類の無思慮と傲慢さに気づき、石油、石炭などの化石資源については、国際協定をもうけ、よほどの必要性が認められない限り、使用を禁止することにしました。そして20年間かけて、石油、石炭への依存度を少しずつ減らし、2050年までに燃料として使われる化石資源の割合をほぼ0にまで減らすことに成功しました。」「でも、まだウランがありますよね」「しかし、ウランの埋蔵量にも限りがあるので、今では、太陽熱、水力、風力などあらゆるものを利用していますよ。勿論伝統的な炭などの燃料もね」「車の通行量も少なくなりましたね。それにとても静かだ」「ええ!人々は特に必要がない限りマイカーではなく公共の交通機関を利用していますし、車はすべて燃料電池で走るものか、電気自動車ですから」「燃料電池は水素と酸素を使うわけですから原料はいくらでもあるのでは」「効率的に水素を作るには、石油やガスなどが必要だったのすが、今ではそれもままならぬので主に水から水素を作っています。でも水から水素を作るには電気が必要なのです。現在の資源では発電量にも限りがありますから、100年前の時代にも増して電力は貴重なものとなっているのです。」「ということは、水素も貴重品ということですね。あーそれで、この喫茶店の名前もハイドロゲン(水素)なのか?」「そうです。100年前に比べ我々は、澄んだ空、きれいな空気を手に入れました。しかし、その一方で節約に耐えなければならなくなったのです。車の燃料となる水素はもちろん、それだけでなく、屎尿、生ゴミ。プラスチックごみ、鉄屑なども以前に増して貴重なものになっているのです。たとえば屎尿からは燃料として使えるメタンガスも取り出せますし、肥料にもなります。今では化学肥料も以前よりずっと高価になっていますから、農家の方々は有機肥料の割合を多くすることで、なんとかしのいでいるのです。なかでもプラスチックスゴミは非常に貴重です。あなたは『不法採掘』という言葉をご存じですか」「不法投棄なら100年前は随分盛んだったんですがね。業者が不法にゴミ大量に捨てるなどということが後を絶たなかったし」「『不法採掘』は、その反対です。昔ゴミの山だった地点を許可を取らずに勝手に採掘して、プラスチックスゴミや鉄屑などを持ち去るけしからん者達が後を絶たないのですよ。」わたしは、2001年の現在と100年後の現実との間のあまりの大きな違いに、呆気にとられてしまった。
取り戻した青空
「でも、済んだ青空、おいしい空気を手に入れ、いまの人達は前世紀の人達よりよほど幸せでしょう。」「私はそう思っていますが、でも人間の欲望には際限がありません。燃料が貴重でドライブもままならい現状に、多くの人が不満を抱いており、マイカーで自由に遠出が出来る日々が再来するのを心待ちにしています。」「そうですね。今あるきれいな空気も、人間が自らの意志の力で勝ち取ったものというより、石油などが欠乏したことで、結果的に手に入れたもののようですからね」「そうです、人間は意志が弱く、だらしのない生き物です。自由に欲しいものが手にはいるとなると、まだ暴走しかねません。実はいま、私が心配していることが起こりつつあるのです。超伝導金属の開発など様々な技術革新によって、一時は不可能とされていた核融合を用いた発電が近未来において実現しそうになって来ているのです。もし、それが実現すれば、人類は無限とも言って良いほどのエネルギーを手に入れることが出来ます。多くの人々はその実現を待ち望んでいるのですが、私は反対に危惧しているのです。」
彼と別れた後、私は農家や、不法採掘現場を取材し、2001年に世界に戻った。
狐につままれたようだったが、でもとても良い夢を見た後のように、気分が爽やかになった。しかし、私の心に「人間は意志が弱く自分自身の欲望を制御できないだらしない生き物だ」というKの言葉が甦ってきた。そうだ!私なんかとても人のことは言えたものではない。いつも締め切りまでに原稿を仕上げようと自分自身に言い聞かせておきながら、締め切りが近づくと、寝そべってテレビを見たりして怠けるだけ怠け、いつも締め切りに遅れてしまう。人間はのっぴきならない状況に追い込まれない限り、自らの意志で現状を打開する能力など持たないのかもしれない。だから「地球温暖化」の問題だって、多くの人々が大声をあげて叫んでいないと、すぐに取り返しがつかない結果に陥ってしまう危険性があるのだ。
そういう考えに取り憑かれると、帰ってきた時の明るさはどこへやら、すっかり気が滅入ってしまった。 (この稿完)