黛敏郎の歌劇「金閣寺」の公演を巡って     


 
2月23日に、三島由紀夫の原作にもとづく黛俊郎の歌劇『金閣寺』の公演が東京文化会館大ホールにて行われたが、私はそれを鑑賞することが出来た。『金閣寺』は22(金),23(土),24(日)の三日間行われたが、『金閣寺』の公演に際しては、本会関係者の中に、ゲネプロ時から係わっていた人もいるので、公演の内容の紹介については、その人に任せることとし、観劇した人間の一人として、この公演を巡って、個人的な感想を中心に触れてみることとする。

 才人黛俊郎と若い頃の私

1965年の頃と思うが、私の師、高田三郎先生に連れられて、国立音楽大学の学長室を訪れたことがあった。当時の学長は有馬大五郎氏で、氏はNHK交響楽団の理事長もされていた。有馬大五郎学長と高田三郎先生の話は、いつしか黛敏郎に及び、学長はN響で演奏され尾高賞を受賞した黛敏郎の「湟槃交響曲」を絶賛した。保守派の代表的作曲家であった高田先生は困ったような顔をされ、年配者の有馬氏に向かって「しかし私は疑問に思う」と小さい声で反論したように記憶している。私は、二人の対話を黙って聞いていたが、どちらかというと有馬氏の意見に賛成だった。
「湟槃交響曲」については、音楽好きの親戚から、この作品は非常に新しい手法で書かれているが、声明など伝統音楽の響きを採り入れ、西洋と東洋を融和させている。黛敏郎は非常に才能があると思うがどうかと言われ、LPを貰ったことがある。LPを聴いて、私は音楽表現の新しい可能性を感じたが、自分が目指す音楽表現とは方向性が著しく異なっている気がしたので、2,3回聴いただけで、何度も繰り返して聴くことはなかった。しかし、1963年頃、友人の助けを借り秋葉原に行き、下宿住まいの部屋に、学生には似つかわしくないほどの贅沢で本格的なオーディオ装置を設置することが出来たので、AMや少し前から始まっていたFM実験放送などで放送された現代音楽の特集番組などを聴く機会が多くなり、その中には黛敏郎が司会を務める番組も少なからずあった。彼の話は弁舌の爽やかさのみならず内容的も興味深く、人前では、しどろもどろになり話もろくに出来ない自分と比べ、「なんという才人だろう」と驚嘆し、自分とは別世界に住む人のように感じていた。
 
 三島由紀夫の『金閣寺』と私

 オペラ『金閣寺』のチラシ


 1964年頃から60年代の終わりまで、自分が求めていたものは、あるいは文学ではないかと思い込み、夢中で文学作品、そして文芸雑誌などを多読した時代があり、当然、三島由紀夫の「仮面の告白」、「金閣寺」、「卒塔婆小町」なども読み漁った。その極度に美しく錬磨された文体から、作者の厳しさと才能を感じたが、どうしても好きになれなかった。「自分の弱さを売り物にするとは」と、三島から酷評された太宰治作品の方が、私は好きだった。
 しかし、1970年、三島由紀夫が、憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけ、割腹自殺をした三島事件に接して強い衝撃を受けた。現世に自分の居場所を見いだせず、命をかけて虚構の美を追い求めた彼の人生の集大成がそこにあるような気がしたからである。
 それで、私は三島由紀夫の愛読者でもなければ、研究者でもないのに、三島由紀夫について私の視点から書いたことがあった。
 黛俊郎は、ミュージカルや映画音楽など、多くのドラマの音楽を手がけているが、歌劇と名付けた作品は『金閣寺』だけである。勿論、1976年にベリリンで初演された作品の存在は、『音楽の世界』でも取り上げられたことがあり、知っていた。そして、私とは全く異なる、二人の才人の出逢いがどんな作品を生み出したのだろうかと、興味深く、その舞台を心待ちにしていた。
 舞台を観た感想は、予想以上に素晴らしく、また宮本亜門の演出もこの作品の表現世界をよく引き出していたように感じた。合唱を中心とした響きが主人公の内面を炙り出し、聴き手の心を抉った。この作品は、前衛的でも、保守的でも、その中間でもない。伝統と新しさが、作品の表現世界を彫り上げる過程で、融合している。黛敏郎は、私より一世代前の作曲家だが、『金閣寺』の演奏と舞台に接して私は勇気づけられた。願わくは、ドイツ語ではなく、日本語の台本で書かれた作品も聴きたかったが、それが実現しないのが、かつて、経済大国と言われている割に貧しい文化環境しか持たぬ、我が国の実状なのであろう。

 『金閣寺』の公演と、日本音楽舞踊会議との絆

 今回の公演の実現に向けて、スタッフの努力は並々ならぬものだったと思うが、出演キャストもこの難曲に果敢に挑戦し、熱演を繰り広げてくれたと思う。この公演の演奏批評については、他誌はもちろん、本誌でも触れる予定なので、ここでは、この公演と、本会の絆について、私が知る範囲で書き留めておくことにしたい。
 まず、会場で、本会会員の声楽家:佐藤光政氏とその友人の宮川定枝さんとお会いして挨拶を交わした。季刊『音楽の世界』新春号に掲載された記事「声楽家:佐藤光政氏へのインタビュー」でも触れられているように、佐藤光政氏は黛敏郎が司会したテレビ番組「題名のない音楽会」に何度も出演して」おり、縁浅からぬ黛敏郎の『金閣寺』の公演とあって、チケットの販売が始まってすぐ、買い求めたと話されていた。
 出演者の中には、私の知人もかなりいたが、特に本会のコンサートと関係がある、二人の声楽家を紹介しておきたい。その一人は、2011年と2012年の2回、本会のオペラコンサートに出演してくれた、テノールの高柳圭氏である。2010年のFresh Concert の時は、スケジュールが合わず出演できなかったので、オペラコンサートには出演したいと語っていたが、2011年の『カルメン』では、ドン・ホセ役を演じて、その美声を聴かせてくれた。2012年の「地獄のオルフェ(天国と地獄)」公演の際は、スケジュールが合わず出られないということだったが、オルフェ役として決まりかけていた歌手が、「フランス語は自信がない」と辞退してきたので、間際になっても主役が決まらず、困って彼に相談を持ちかけた。彼は、私の願いを快く受け入れ、一緒にテノール歌手を探してくれたが、それでも、なかなか見つからなかった。オルフェ以外の役は殆ど決まっており、みんなが張り切っていたので、急遽『地獄のオルフェ』の公演を中止しなければならないかと考えると、暗澹たる気持ちになったが、彼から、「もしかすると私が出られるかもしれないのでスケジュールを調整してみます。」という電話があり、しばらくして「なんとかなりそうなので出ます」と、再び電話があった時には、本当に救われた思いがした。無理にスケジュール調整をしてくれた結果、合同練習に参加出来ないこともあったが、最後の合同練習の時には、歌も演技もほぼ完璧に仕上げた状態で参加してくれ、若いながらプロとしての強い自覚があると頼もしく思った。この公演は練習期間が短い中で、みんなが頑張り、結果的に素晴らしい公演となり、お客の評判もよかった。この時、彼が参加を決断してくれたことに対しては、いまだに恩義を感じている。
 彼は、二期会ではニューウェーブオペラ劇場のラヴェル作曲「スペインの時」でゴンサルヴェの役を演じたりしているが、二期会の大舞台への出演は今回が初めてではないかと思う。今回柳氏は、主人公の母の不倫相手である「若い男」という役で出演していた。出番は少ないが、主人公の内面に大きな影響を与える役である。いわばいやな男の役を、印象的に演じていた。これからは、二期会の公演で大きな舞台に立つ機会も増えると思われるが、この好青年の今後について期待をもって見守って行きたいと思う。
 もう一人は、2014年のFresh Concertに出演したメゾ・ソプラノの中川香里さんである。Fresh Concertでは、チャイコフスキーの歌劇「オルレアンの少女(ジャンヌダルク)」のアリアを歌った。
その後、私は昨年の二期会プッチーニの『三部作』の公演の「修道女アンジェリカ」で修道女の役で出演したのを観ているが、今回は出番がそう多くはないものの、より重要な娼婦役で出演していた。妊婦だった娼婦は主人公に腹を踏まれ流産し、その噂を知って問い糾す友人に主人公は嘘をつき、結局友人を自殺に追い込む。第三幕では主人公の心の闇を表す幻の重唱に娼婦も加わる。
 清廉なオルレアンの少女を歌った彼女だが、今回は汚れ役ともいえる娼婦の役をなかなか良く演じていた。まだ、大学を終えてからそれほど年月を経ていない若い彼女の今後についても、大きな期待をもって見守って行きたい。その他、黛敏郎の研究者で、『音楽の世界』にも度々記事を寄せてくれている西耕一氏、それと『音楽の世界』の編集長の橘川琢氏と、会場で合った。二人とも。今回の公演にそれぞれのあり方で協力していたようである。
 私は、今回の公演について、我が国の音楽文化史上に確たる足跡を残す価値あるイベントと捉えている。そのような舞台に、本会主催のコンサートに参加した若い音楽家が複数出演し、本会の関係者が協力したことは、本会が我が国の音楽文化の発展に、いささかなりも役割を果たしている証と云えると思う。私はそのことを、喜びを持って受け止めたい。 
                                      中島 洋一    季刊 『音楽の世界』2019年春号掲載

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