カルト教団と現代(オウム真理教事件) 1  

                                                         作曲:中島洋一

A:戦後50年という節目の年に阪神大震災、オウム真理教事件と相続いて大きな事件が起こりました。本日はオウムの事件にスポットを当ててみたいと思います。オウムの事件に遭遇してまず何を思いましたか。
B:私は戦後派なので、戦時中の実体験はないんだけど、まず戦中の神国日本、そしてナチスの第三帝国を思い浮かべました。全部が同じという訳ではないけど、本質的には非常に似たところがあると思います。
A:オウム事件以来、カルト宗教とか、マインドコントロールという言葉が一般的になりました。インチキ宗教の見分け方として教祖が贅沢をするとか、高いお布施を取るとかがいわれていますが、カルト教団とはそのような特徴があるのですか。
B:そういう基準は余りに皮相的に過ぎるでしょう。カルトの教祖でも清貧に甘んずる者も いるでしょうし、高いお布施を要求しない教団だってあるでしょう。
  カルト教団の最大の特徴は教祖自身が神であり絶対者であるという点です。例えばキリスト教系のカルトなら神としてイエスの名を口にするでしょうが、それはダシに過ぎません。一方、キリスト教、仏教にも様々な分派がありますが、どの分派でも生身の人間は絶対者にはなり得ないのです。従って人が人を裁くことは罪なことですし、教祖がいたとしても彼は神の心を伝える伝道者に過ぎず絶対者ではありません。聖書も教典も、 牧師も僧侶も魂を導くガイドの役割は担ってくれるでしょうが、真理は自分で探さなくてはならないのです。しかし、カルト教団では教祖の言葉は絶対であり真理なのです。
 本来宗教は人間存在の根底に目を向けさせ、人の魂の自立を支援するものでしょう。しかしカルト宗教の場合、信者の魂を教祖に隷属させることを要求する。
A:つまりカルトの教祖は、精神的な独裁者ということですね。
B:そう、信者は心を支配され、やがて行動まで支配される。
A:そう考えると、神国日本や第三帝国も似たところがありますね。カルト国家とでもいう ような。
B:それに極めて近い状態だったと想像しています。
A:カルト教団というと統一協会などが思い起こされますが、我が国だけではなく世界的に、はびこっているようですね。
B:特に、アメリカでは以前から大きな社会問題になっており、それだけにカウンセリング などの対策も進んでいるようです。
 あるテレビ番組でオウム被害者弁護団の伊藤弁護士が「脱会信者へのカウンセリング が必要。キリスト教系の救済組織もあるが今のところそれが一番信頼できる(その頃は、オウム脱会者による救済組織『カナリアの会』は本格的な活動を始めていなかったものと思われる)。」と発言したところ、いかにも軽薄な文化人風のゲストが「キリスト教だってマインドコントロールに変わりがないんだから、そちらの方が上でオウムの方が下だという序列をつけることなどできない。従ってそんなことをする必要がない。」と返すと、それを聞いた伊藤氏とジャーナリストの有田氏が「カルトの本質というものがちょっともわかっていない。世の中の人間の認識がこの程度だからカルトが蔓延るのだ」と激怒していました。
 本年4月のニュース特集で6人のオウム信者を脱会させた牧師さんの体験談が放送されましたが、くだらないスクープ報道が多いオウム関連番組の中で、とても奥深く感動的な番組でした。牧師さんの話によると、信者に対する愛情は持ちながらも、教義の矛盾を指摘し、その心を支配しているオウムの教義を壊さなければならない。彼はそのために仏教の教義も勉強されたそうです。オウムは仏教系のカルトなので、仏教からその矛盾をつく方が容易だというのです。キリスト教では死生観がまるで異なりますから。 ところが、今まで強く信じていたものが壊れてしまえば、その信者の魂はもぬけの殻となってしまいます。そうなった人間に「両親を大切にしなさいとか、世の中の役にたつ人 間になりなさい。」といった常識論を振りかざしてみても何の効果もないわけです。彼らの多くは自分の欲望を満たすためだけではなく、世の中のためになる人間になろうと思いオウムに入信したのでしょうから。従って、彼らが自分の魂の中にオウムの思想よりもっと深く強い思想を樹立し、人格が再構築されるまで支援してあげなければならないのです。その牧師さんは何もキリスト教に改宗させようと思ってカウンセリングを行った訳ではありません。結果的にキリスト教徒になった元オウム信者もいたかもしれませんが。
 ようするに、キリスト教系の人だろうが、仏教系の人だろうが、心理学者であろうが、その信者の心を理解し、そこへ入り込み、魂をオウムの呪縛から解放し立ち直らせることが出来る人間が必要ということでしょう。

   
〈オウムと終末論〉
A:ところでオウムの麻原はハルマゲドンを予言し、自ら実行しようとしたわけですが、殆 どの新興宗教はその根に終末思想を持っているようですが。
B:現在は人類の文化の変わり目のような時代で、多くの人々がなにがしかの精神的不安を抱いていると思います。終末論もそのような精神的背景から生まれてくるのでしょうが、より現実的、客観的に現代をみると、人類の半分以上が滅亡するような大戦争勃発の危険性は、むしろ50年代、60年代に比べればずっと小さくなっていると思います。環境問題も人間がこのまま反省せず増長し、自然破壊を推し進めればやがて取り返しがつ かない事態が生ずる危険性もありますが、今の段階から自然の生態系を配慮し無理な開発を控えれば、まだまだ長い年月にわたり人間が存続できる環境を維持することは十分可能だと思います。南北問題や人口問題は解決が難しいでしょうが、それが大戦争のキッカケになる可能性は少ないと思います。私は行く先が見えないということなら、終戦直後の状況の方がよほどそうだったと思います。ただ当時は生きること、食べることに精一杯で、不安など感じているゆとりもなかった。ひょっとすると魂の不安も、生活のゆとりが生んだ副産物かもしれませんね。もっとも、終戦直後は行く先が見えなかったけど若い人々が大きな希望を抱けた時代だったかもしれない。現代は若い人が希望を持ちにくくなっている時代で、それが後述するオウムの膨張の要因になっているかもしれません。話しを前に戻しますが、それから人間は数字の暗示に弱い。現在は199X年で2000年の区切りの直前です。それが世紀末不安を煽る。多くの新興宗教は人類終 末の危険日として、1997−1999という1900年代最後の年を上げています。
 ただオウムの終末思想は、終末を恐れ、それを避けようと努力するというのと正反対に終末を待ち望むといった、終末待望の色合いが濃い。彼らの言うハルマゲドンとは第三次大戦が起こり、核爆弾や毒ガスによって殆どの人類は滅ぶ。その中で神仙民族(オウム)だけが生き残り、光輝く未来の文化を構築して行く。ハルマゲドンとは神の力と悪の力が戦う最終戦争ということですから、最後に勝利するオウムこそが神の勢力で、それと敵対する勢力は悪ということになる。麻原がいう救済計画とは多くの人間をオウム信徒にすること。現世でオウム信徒にならない人間はポア(殺し)し、来世において神仙民族に取り込むということでしょう。私にはどうもそれが「アジアの諸民族を鬼畜米英どもから解放し、日本を中心として樹立した大東亜共栄圏のもとで彼らに輝かしい未来を与える」とした戦時中の妄想的スローガンと重なって見えて来てしまうのですが、それと比べてもあまりに誇大妄想的で馬鹿げています。
 麻原がそのような強い現世否定思想を抱くようになった背景には、身体障害者というハンデを持ちながら世の中での成功を夢見て努力したものの挫折した彼のこの世に対する激しい呪詛があると思います。「自分のような尊厳のある人間を排除、迫害するこの世の中は誤った世の中であり、そのような世の中は壊して新しく作り変えなければならない」という狂信的な執念でしょう。一方オウムに入信した若い信者達はやはり自分の日常生活に対して不安やむなしさを感じていた。そしてオウムに入信することで、最終解脱者を目指して身心の修業を積むこと、また壮大な人類救済計画にかかわるという二つの大きな目的が持て、輝かしい人生の意義を手に入れたように思った。
 ※麻原は自分がダライ・ラマの高弟だったことを吹聴していますが、ダライ・ラマ自身は、自分はまだ修行中の身といっています。それなのにその弟子が最終解脱者などというのは、到底信じがたい馬鹿馬鹿しい話しですが。
 麻原と若い信者の現世否定は、そこに至るプロセスはかなり異なると思いますが、現世 否定という点で符合してしまった。

     
〈多く入信した高学歴者〉
A:それにしても、オウムの幹部は高学歴者が多いですね。幹部クラスの25名だけをみても東大(休学者も含む)の3人をはじめ、一流大学卒業者がずらりといる。彼らは頭が良すぎて道を誤ってしまったのでしょうか。
B:高学歴だから賢いということはないでしょう。君がそういう見方をするのは君が高学歴崇拝教に洗脳されているからですよ。(笑い)
A:オウムでは最終的に70トンのサリンの製造を計画し、今年の11月には数十台の噴霧 車を動員し、都内で大規模にサリンをバラまくことを計画していたようでうね。
B:大戦争のキッカケにしよう考えたんでしょうが、そんなことをすれば一般市民が大勢死にますけど、それが大戦争のきっかけとなる可能性は99.99%ないことは高校生程度の社会科学、国際政治、国際経済の知識を持ち、それを組み立てて総合判断する知力があれば容易に推論できる。
A:オウムに入信したエリート達の入信前の人物像の平均値は、学業優秀で正義感が強く思いやりがあり、礼儀正しい。親から見ても教師からみても良い子で親の自慢のタネ、といった像が浮かぶのですが。
B:彼らの多くは真面目におとなしく敷かれたレールの上を走っていた。ところがある時「人は何のために生きるのか」、「自分の人生はこれでよいのか」、「死後の世界はあるのか」、「今の世の中はこれでよいのか」などと考えるようになった。そういう状態こそ自我の目覚めであり、自分の心を他人は判ってくれないという孤独にさいなまれながらも、他人と交わり、書物を読み、芸術に接し、行動し、思索し、自分なりの答えを探求する努力を継続することで、自我は育成され魂が深められて行くのです。そういう意味では彼らの多くが良い資質の持ち主であることは否定しません。ただ、彼らは自分で答えを探す努力を継続できず、麻原が与えてくれた解答に飛びついてしまった。敷かれたレールの上を走っていてふと考えて立ち止まったものの、今度は麻原の敷いたレールの上を走ってしまった。大切なのは、レールの無い所、薮の中に自力で道を切り開き歩くことの出来る自立力を持つことなのです。
 しかし、切り売りされた知の破片を買っても、それを組立て総合的に思考する知力の 欠如、他人の与えた答えにすぐ飛びついてしまう主体性の弱さ、薮の中に自らの道を切り開き歩くタフな自立力の欠乏。こういう傾向は今の若者が一般的に備えている欠点かもしれません。とすると現在の教育にも問題と責任の一端があるでしょう。私も教育に携わる者の一人として反省をする必要がありそうです。 (つづく)
          
 ( 日本音楽舞踊会議発行 エコー1995年8月号掲載)

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