◆ オウム真理教事件について ◆
まだ事件のことは生々しく記憶に残っていいますが、1995年3月20日の地下鉄サリン事件の後、22日に旧上九一色村のサティアンなどオウムの施設に捜査の手が伸び、5月16日に麻原彰晃が逮捕されてから、もう23年経ちました。浅原が逮捕された後、幹部達が続々逮捕されましたが、その頃のニュース番組は、オウム事件一色でした。
私は1989年7月~1991年3月の期間は、電子音楽の研究のためヨーロッパ、アメリカに滞在しており、坂本弁護士一家が行方不明になったニュース、オウム真理教が1991年2月の総選挙に打って出たニュースについては殆ど知りませんでした。私は1991年4月に帰国しましたが、一時期、留守中に荒れた家を改築するため、近くに小さなアパートの一室を借りて住んでいたことがあります。あるとき、郵便受けにカセットテープが入った封筒が投函されていました。封を開けるとカセットテープのジャケットにはひげもじゃの男の写真があり、文書も同封されていたと思います。何か、新しい音楽グループの宣伝用テープかと思い、その時は聴いてみることもしませんでした。それからしばらくして松本サリン事件が起き、そして地下鉄サリン事件が起きました。その時は、まだオウム真理教の犯行かどうかも判りませんでしたが、白昼の人口集中地で起こった無差別テロということで、大きな衝撃を受けました。
実はオウム真理教事件のかなり前に、私が大きな衝撃を受けた事件がありましたが、それは1972年の浅間山荘事件に至る連合赤軍のリンチ殺人事件です。私は1960年代にはドストエフスキーの文学を愛読し強い影響を受けましたが、その事件が小説「悪霊」の世界が、まるで現実になった事件のように感じたからです。
私はドストエフスキーの文学に接して、「善」と「悪」は対局的に存在するものではなく、ごく近く隣り合わせに存在し、僅かなブレで善が悪に変貌すること。そして「巨悪は善の幻想から生まれることがしばしばある」、という認識を抱かざるをえませんでした。
浅原が逮捕され、関わった多くの弟子達が逮捕された後、多くの若者たちがなぜ事件に加担して行ったのか、彼らの心理的背景を知りたくて、Niftyなどパソコン通信で、関連ページを開き、彼らの裁判における供述や、手記などに出来るだけ目を通すようにしました。そして例えば井上嘉浩などは、真摯に自分の内面をみつめて自分の思いを語っており、もし、彼のような人物の心を最初に捕らえたのが浅原ではなく、読書や人付き合いの中で、他に強い出逢いがあったら、随分異なった人生を歩んだであろうな。あるいは、悩んだり迷ったりしている人の心を良い方向に導くような仕事ができたかもしれないと考え、「残念、もったいない」という気持を抱いたものです。
浅原が事件について語らぬまま処刑されたことで、「事件が暗闇に葬られ、何も解明されていない」という声も上がっていますが、私は例え彼が語ったとしても「すべてが解明される訳ではない」と考えています。人間の記憶は時とともに変質してしまいますし、「なぜ、そのような事を起こしたか」そこに至った自分の心の経緯について、本人と云えども「厳しく見つめることが出来る」とは思えないからです。
浅原は1997年頃から裁判において不規則発言を繰り返すようになり、やがて何も語らなくなったといわれており、それは「詐病」ではないかという推測もあります。しかし、これは私の見方ですが、そうでもないような気がしております。浅原とて超人的な意思力、自己制御力をもつ人間ではないのではないかと推察します。例えば、強い支配欲、自己顕示欲も見方を変えると人間的弱さの現れとみることも出来ます。彼は自分が最も可愛がっていた井上嘉浩が裁判で尊師であるはずの自分をを厳しく糾弾する立場にたったのは予想外で、それをきっかけに、彼(浅原)の精神が次第に壊れって行ったのではないかと想像しております。
もし、浅原が事件のことをつぶさに語れば、事件の真相がより見えてきたかもしれませんが、
それでも事件が解明されるには至らなかったと思います。
その一方、なぜ多くの若者たちが浅原に心を奪われ事件を起こすに至ったかは、井上などに発言を求めることで、もう少し深くまで解明できたかもしれません。
私個人は浅原の処刑については被害者の方々の心情を考えれば「やむをえない」という気がしておりますが、同時に他の6名の弟子たちをあわせて処刑したことについては、合点が行かないのです。
この事件の被害者の方々の苦しみは想像を絶するものと思いますが、経験していない私には被害者の方々一人一人の心に寄り添うことはできないでしょう。
ただ、この事件を過ぎ去った事件として忘れるのではなく、世の中の多くの人々が、この事件を風化させることなく、心にとどめておくことこそ、類似した事件の再発を防ぐ防波堤となるように思います。
なお、オウムの事件については、事件が起こった当時1995年~1196年に書いた文書を再録します。しかし、私はオウム真理教の事件を専門に追及して来たジャーナリストではありません。
再びこの事件に触れるときは、この欄においてではなく、「人とは何か、人は何を求めて生きようとするのか」など、大きな問いの中で、触れてみたいと考えています。
2018年7月6日(金) 執筆
(以、下線のある文字列をクリックすると、その上に表記されたタイトルの文を読むことが出来ます、
オウム真理教事件 1995-96年執筆
1995年に書いたオウム真理教事件関係の文書集について
A)日本音楽舞踊会議の会員向け広報紙 ECHO に発表した文章
1) カルト教団と現代(オウム真理教事件) 1 ECHO 1995/8
2) カルト教団と現代(オウム真理教事件) 2 ECHO 1995/9
~ 巨悪は善の幻想から生まれる ~
3) エコー論壇 ECHO 1995/10
4) オウム教団への破防法の適用について ECHO 1996/1
B) 国立音楽大学 教員組合新聞の記事
「オウム事件と国立音大デモクラシー」 教員組合新聞 1995/7
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